アナザーストーリーver.10|急性期病棟で心をすり減らした私が見つけた1対1で向き合う看護こそ私がやりたい看護

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長谷川 杏・4年目(訪問看護ステーション)


夏の朝、強い日差しを受けた街路樹の濃い緑が風に揺れる中、私はいつものように病院の裏手にある職員通用口へと向かっていた。朝だというのに空気にはすでに湿った暑さがまとわりつき、白衣の入ったトートバッグを持つ手にもじんわりと汗がにじむ。

ナースステーションへ入るための自動ドアの前に立つと、胸の奥がぎゅっとすくむような緊張感が走り、無意識のうちに大きく一つ深呼吸をするのが毎朝のルーティンになっていた。


「効率よく」が最優先。患者さんの顔を見る余裕さえなかった

私の職場だった急性期病棟は、常にスピードと効率を求められる、息つく暇もないような場所だった。看護師として4年目を迎え、ひと通りの業務をこなしながら後輩を支えることも期待されるようになっていたが、私の心はいつしか深い違和感に覆われていた。

鳴り止まないナースコール、重症患者さんの急変対応、次々に入る検査や処置。それらをいかにミスなく、迅速にこなしていくかが重視される毎日だった。

「長谷川さん、10号室の検温まだ終わってないの? 急変対応が入ったのは分かるけど、もっと効率よく回してくれないと困るよ」

ベテランの先輩ナースからの冷ややかな声が飛ぶ。

点滴をつなぎ、処置をこなし、次の検査へと患者さんを送り出す。気づけば私は、患者さんの目を見ることもなく、機械的にルーティン作業をこなすだけのロボットのようになっていた。

「今日、あの患者さんとどんな言葉を交わしたっけ」

そう振り返っても、何も思い出せない日々に強烈な疑問が湧き上がった。命を支える最前線にいるはずなのに、一人の人間としての患者さんに向き合えていない。

そんな虚しさが、夜勤明けの疲れ果てた頭の中で、消えない足枷のようにずっと重く沈んでいた。


「4年目で辞めていい?」私を縛った罪悪感

しかし、いざ「このままではいけない」と、別の道を模索し始めてからの日々は、暗い霧のなかで立ち往生するような時間だった。

何よりも私を縛り付けたのは、強烈な罪悪感だった。4年目になり、後輩の指導や委員会業務を任されることも増え、少しずつ病棟を支える側になっていた。このタイミングで自分が抜ければ、ただでさえ人手不足の病棟にさらに負担をかけるのではないか。

先輩たちから「無責任だ」「4年目なのに自覚がない」と思われるのではないかという周囲の目が怖くて、勤務中はいつもビクビクしていた。


急性期を離れたら、看護師としてのキャリアは終わる?

それに、「病棟経験がまだ4年」というキャリアへの不安も私の足をすくませた。

急性期の最前線から離れてしまったら、これまで身につけてきた看護技術が衰えてしまうのではないか。訪問看護へ進んだあと、もし病棟へ戻りたいと思っても戻れなくなるのではないか。

そんな恐怖が頭を離れなかった。

結局、夜ベッドに入ってから、スマートフォンで看護師転職サイトの求人画面をただスクロールして眺めるだけの日々が二ヶ月以上も続いた。

気になる条件を見つけても、画面の「応募ボタン」がどうしても押せない。指先が画面の上で静止したまま、ため息とともにアプリを閉じる夜が何度も繰り返された。

迷いはそれだけではなかった。

規則正しい一般クリニックにするべきか、美容クリニックか、それとも健診センターか。

複数の転職先候補の間で、私の思考は完全に迷子になっていた。

時には「転職なんて大きなリスクを冒さず、今の病棟でもっと効率よく仕事をこなせるようになればいいのかもしれない」と、現状維持の道へ逃げたくなる瞬間も何度もあった。


私がしたかったのは「1対1でじっくり向き合う看護」だった

それでも、私はただ「今の忙しい環境が嫌だから」辞めるのではないと気づいた。

私は、効率だけを追い求めるのではなく、一人の人間として患者さんと1対1でじっくり向き合い、その人の生活に根ざした看護がしたいのだ。

「病気」だけではなく、その人がどんな家で暮らし、何を大切にし、どんな生活を送りたいと思っているのかまで知ったうえで、その人を支えたい。

その大切な軸に気づいたとき、私の目に留まったのが、中目黒にある訪問看護ステーションの求人だった。

「ここなら、私がやりたかった看護ができるかもしれない」

そう思ったとき、二ヶ月以上押せなかった「応募ボタン」を、私はようやく自分の指で押すことができた。


転職から3ヶ月。急性期病棟から訪問看護へ

転職から三ヶ月が経った夏の午後。私は、かつて同じ病棟で働き、私の葛藤をずっと知ってくれていた8年目ナースのあんこ先輩と、目黒川沿いの桜並木から少し入った路地裏にあるテラスカフェにいた。

真夏の日差しを受けた桜並木は濃い緑に覆われ、セミの声が街のあちこちから聞こえてくる。時折、目黒川のほうから吹いてくる風が木々の葉を揺らし、まとわりつくような暑さを少しだけ和らげていた。

「杏ちゃん、なんだかすごく表情が柔らかくなったね。病棟にいた頃の、あのいつも何かに追われているような張り詰めたオーラがすっかり抜けてる」

あんこ先輩が、冷たいアイスラテのグラスを傾けながら、優しく微笑んだ。

「本当ですか? でも、今の職場でも新しい在宅医療機器の扱いを覚えたり、訪問先で自分が判断しなきゃいけない場面があったりして、毎日必死なんですけどね」

私は髪を耳にかけながら、少し照れくさそうに笑った。


訪問看護にも難しさはある。それでも病棟時代とは違う

新しく始めた訪問看護の仕事は、決して完璧な魔法の楽園というわけではなかった。

病棟のように同じフロアですぐそばに同僚がいる環境とは違い、訪問先では、その場で自分自身が状況を観察し、判断しなければならない場面もある。もちろん、判断に迷えばステーションへ連絡して相談できる。それでも、利用者さんの自宅という生活の場へ一人で訪問することには、病棟とは違う責任の重さがあった。

先日も、なかなか心を開いてくださらない利用者さんとの信頼関係をうまく築けず、訪問中の会話で気まずい沈黙を作ってしまった。帰り道、「もっと違う声のかけ方があったんじゃないかな」と考え込み、自分のコミュニケーションの未熟さにひどく凹んだばかりだった。

真夏の暑さの中での移動や、利用者さんのご家庭ごとに異なる生活習慣や環境に合わせて看護を組み立てる難しさもある。

病棟とはまた違う種類の緊張感と難しさがあった。

けれど、その失敗や悩みは、あの病棟時代に感じていた「目の前の患者さんと向き合いたいのに、時間に追われ続ける苦しさ」とは、まったく異なる性質のものだった。

「大変なことはありますけど、今の訪問看護では、限られた訪問時間の中でも利用者さんの目を見て、その人の人生や生活の困りごとにじっくり向き合えるんです。点滴を素早くつなぐ速さだけじゃなく、その人がその人らしく暮らすために、どう支えるかを考えられる。私、それがすごく嬉しいんです」

あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、「うん、うん」とただ静かに頷いて聞いてくれていた。

「転職して正解だったね」と安易に太鼓判を押すわけでもなく、私の今の等身大の言葉を、そのまま温かく受け止めてくれている。


急性期を離れて見つけた「私が大切にしたい看護」

「転職活動中、キャリアのことで本当に悩んで、夜通し求人サイトを見るだけで終わる日もありました。でもね、先輩。あの時、周囲の目への恐怖に怯えながらも、自分が大切にしたい働き方を考え抜いたからこそ、今の場所があるんだって思えます」

私はアイスラテのグラスに浮かぶ氷を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。

「急性期病棟で過ごした時間が無駄になったわけじゃないんです。患者さんの小さな変化に気づく力も、急変したときに何を優先するか考える力も、今の訪問看護でちゃんと役に立っています。劇的に人生がキラキラしたわけじゃないし、今でも自分の力不足に悩む日はあります。でも、あの頃に比べたら、すごく呼吸がしやすくなりました。自分で悩んで、自分で選んだ道だから、どんな失敗も前向きに受け止められるんです」

話し終えた私に、あんこ先輩はふわりと微笑み、静かにグラスを置いた。

「そっか。杏ちゃんが自分でたくさん考えて、その道を選び取ったんだもんね」

その短い、けれど私の歩んできた道のりのすべてを肯定してくれるような言葉に、胸の奥に残っていた最後の迷いがすっと消えていくのを感じた。

目黒川沿いの濃い緑を揺らしながら、夏の風が吹き抜けていく。セミの声に包まれた街はまだ暑かったけれど、頬を撫でる風は不思議なほど心地よかった。

その風が、胸の奥に残っていた重さまで、どこか遠くへ運び去ってくれるような気がした。


💙あんこからのあいさつ💙

今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?

今の職場で迷いながらも、自分が大切にしたい働き方を真剣に考えてみる。その結果として、残る選択をしても新しい道を選んでも、あなたが自分で悩んで歩き出した道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。

あなたの未来を守る「お守り」です。

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