看護師あんこ日記 Episode1
急性期病棟の夜勤明け。5月の青空が眩しすぎた
「……お疲れ様でした。お先に失礼します」
ナースステーションを出て、更衣室にむかう階段を降ると、張り詰めていた緊張の糸がプツリプツリと切れていく。
時計の針は午前10時を回っている。
一般病院の急性期病棟に勤務して、今年で丸8年。
昨夜の深夜勤は、まさに「戦場」だった。深夜2時の緊急入院に始まり、不穏の患者さんの対応、鳴り止まないナースコール。仮眠室の硬いベッドに横になれたのは、結局1時間にも満たなかった。
白衣から私服に着替え、病院の職員通用口のドアを出る。5月の抜けるような青空と、容赦のない太陽の光が、徹夜明けの目に痛い。
駅までの平坦な徒歩10分の道のりが、今日ばかりはキツい登り坂のように感じられた。
/
夜勤明けの鏡に映った、疲れ切った30歳の看護師
重い足取りで駅の改札を抜け、いつもの通勤電車のホームへ向かう。
ふと、エスカレーターの横にある大きな姿見が目に入った。いつもなら通り過ぎるはずの鏡の前で、私はなぜか足を止めてしまった。
「……え、これ、私?」
鏡の中にいたのは、お世辞にも「30歳、大人の女性」とは呼べない、くたびれ果てた一人の人間だった。
目の下に刻まれたファンデーションでも隠しきれないクッキリ浮かび上がったクマ。
マスクの摩擦と乾燥で、粉を吹いたようにカサついている口元。
どこか焦点が合っていない疲れきった瞳。
髪はボサボサで、お気に入りのブラウスを着ているはずなのに、服だけが浮いて見える。
街を行き交う同世代の女性たちが、みんな綺麗で、眩しくて、ちゃんとした「丁寧な暮らし」を送っているように見えて、思わず自分の顔から目を背けた。
/
20代とは違う。30歳になって感じ始めた夜勤の疲れ
看護師になったばかりの20代前半の頃は、もっと無敵だった気がする。
当時は今よりも仕事が激務で、夜勤中に一歩も座れないことなんて日常茶飯事だった。仮眠が1分も取れなくたって、夜勤明けの足でそのまま同期と渋谷へ繰り出し、パンケーキを食べてカラオケでオールする体力があったのだ。
「若いから大丈夫」
その言葉を免罪符に、自分の身体をいくらでも前借りして働いていた。
けれど、30歳という大台を迎えた今、身体は確実に「変化」のサインを出している。
夜勤明けの疲労は翌日になっても抜けない。休みの日に12時間寝たとしても、頭の芯にある重だるい何かは消えてくれない。
肌の曲がり角なんてとうに過ぎて、一度荒れた皮膚は1週間経っても治らなくなった。
身体の回復力が、明らかに衰えている。
その現実を、駅のホームの冷たい鏡が残酷なまでに突きつけていた。
/
看護師の夜勤は何歳まで?初めて考えた「この働き方を一生続けられるのかな」
電車に乗り込み、運良く空いていた席に深く腰掛ける。
電車の心地よい揺れが眠気を誘うけれど、頭の中は妙に冴え渡ってしまっていた。
病棟には、50代になっても夜勤をバリバリこなすベテランの先輩ナースもいる。そのタフさは本当に尊敬するけれど、ふと思ってしまう。
「私は20年後も、今と同じように夜勤明けのボロボロの顔で、この電車に揺られているんだろうか」
看護師の仕事は好きだ。
患者さんが元気に退院していく姿を見ればやりがいを感じるし、8年かけて身につけた知識や技術には誇りを持っている。
でも、私の人生は「看護」だけで終わっていいのだろうか。
自分の身体をすり減らし、大切な美容やプライベートの時間を犠牲にし続けて、その先にある未来に、私は笑顔でいられるのだろうか。
ガタゴトと音を立てる電車の窓に、また私の疲れた顔が映り込む。
これまでは考えもしなかった。
だけど一度浮かんだら消えてくれない、
「このままでいいのかな」
という小さな不安が、胸の奥底に静かに澱のように溜まっていくのを感じていた。
帰ったら、お気に入りのちょっと高い洗顔料で顔を洗って、泥のように眠ろう。
迫り来る強烈な睡魔に身を任せながら、私はゆっくりと目を閉じた。
(episode2へ続く)
