藤田 美咲・6年目(看護師派遣)
前年の秋。
池袋駅の東口から溢れ出す通勤客の波に押されながら、私はいつものように病院へと続く大通りを歩いていた。
空は薄い灰色の雲に覆われ、街路樹の葉は黄色や赤に色づき始めている。ときおり吹き抜ける乾いた風が、歩道に落ちた葉をカサカサと転がしていった。
周囲を歩く人たちは薄手のコートやジャケットの襟を立て、足早に駅からそれぞれの職場へ向かっている。
けれど、私の体を硬くしているのは、秋の朝のひんやりとした空気だけではなかった。
看護師として6年目。
病棟では一通りの業務を任され、後輩から相談されることも増えていた。
それなのに、毎朝ナースステーションの自動ドアを開ける瞬間だけは、何年経っても変わらない。
胃の奥を、ぎゅっと雑巾のように絞られる。
ロッカー室の鏡の前でナース服の襟を整え、深く息を吐く。
それが、いつの間にか私の毎朝の習慣になっていた。
病棟を支配していた、師長とベテランナースの派閥争い
私の心を限界まで削っていたのは、急性期病棟特有の夜勤や、めまぐるしい急変対応だけではなかった。
一番つらかったのは、病棟内で続いていた師長とベテランのリーダーナースを中心とする人間関係の対立だった。
6年目という立場は、双方から声をかけられやすかった。
師長にも日頃から相談される。
一方で、現場を長く支えてきたベテランナースとも一緒に働く時間が長い。
だからこそ、いつの間にか私は、その間に立たされるようになっていた。
「藤田さん、さっき師長が言ってたあの指示、現場のこと全然分かってないと思わない? 美咲ちゃんから少し言っておいてよ」
別の日には、
「藤田さん、リーダーさんのあの動き、ちょっと気になるわよね。あなたからさりげなく話しておいてくれない?」
ナースステーションの隅。
休憩室。
廊下。
人目につかないところで呼び止められ、双方の愚痴を聞かされる。
私は誰かの味方をしたいわけではなかった。
ただ、患者さんの看護をしたかった。
それなのに、一方の話を聞けばもう一方から距離を置かれ、逆もまた同じだった。
「美咲ちゃんって、結局どっちなの?」
冗談のように言われたその一言が、妙に胸に残った。
どっちでもない。
私はただ、看護師としてここで働いているだけなのに。
そう言いたかった。
けれど、言えなかった。
患者さんより、人間関係に神経を使う毎日
タイムカードを切ったあとも、帰ろうとすると誰かに呼び止められることがあった。
「ちょっと聞いてよ」
その一言から始まり、気づけば30分。
ときにはもっと長く、病棟の人間関係の話を聞いていた。
本当は疲れていた。
早く帰りたかった。
でも、
「今ここで断ったら、明日から気まずくなるかもしれない」
そう考えると、
「はい、大丈夫ですよ」
と笑ってしまう。
患者さんの状態を見るよりも、今日は誰と誰が機嫌を悪くしているのかを気にしている自分に気づいたとき、ひどく虚しくなった。
「私がこれまで身につけてきた看護の知識や経験は、病棟の人間関係を丸く収めるためにあるんだろうか」
ある夜勤明け。
病院を出ると、冷え始めた秋の朝の空気が頬に触れた。
歩道では、黄色く色づいたイチョウの葉が風に舞っている。
私は立ち止まり、その光景をぼんやり眺めた。
「もう、このしがみつくような人間関係から離れたい」
初めて、はっきりそう思った。
「6年目で辞めていい?」私を縛った罪悪感
けれど、決意したからといって、すぐに辞められたわけではなかった。
一番強かったのは、罪悪感だった。
6年目になり、夜勤も任される。
新人や若手から相談を受ける。
リーダー業務を担当することも増え、病棟の運営について考える立場にもなっていた。
ここで自分が抜ければ、後輩たちの負担が増える。
何より、今まで自分が間に入っていた分、師長とベテランナースの対立がそのまま若いスタッフに向かうのではないか。
そんなことまで考えてしまった。
「中堅なのに無責任だと思われるかもしれない」
「人間関係が嫌で逃げたって言われるかもしれない」
その恐怖が、何度も私を元の場所へ引き戻した。
同じ病棟には、私より2年先輩の8年目ナース、あんこ先輩がいた。
ある日、休憩室で一人になった私を見て、
「美咲ちゃん、最近ちょっと疲れてない?」
と声をかけてくれた。
「大丈夫です」
いつものように私は笑った。
すると、あんこ先輩はそれ以上何も聞かず、
「そっか。でも、無理しすぎないでね」
と言ってくれた。
その言葉だけで、なぜか泣きそうになった。
「病棟を離れたらキャリアが止まる?」消えなかった不安
もう一つ、私を迷わせたのがキャリアへの不安だった。
病棟経験は6年。
まだ看護師人生は長い。
ここで病棟の常勤を離れて、派遣という働き方に変えたら、これまで身につけた技術が衰れてしまうのではないか。
特定の職場に所属しない働き方を選んだことで、
「キャリアから外れた人」
と思われるのではないか。
そんな恐怖があった。
夜、ベッドに入ると、スマートフォンを開いた。
「看護師 転職 6年目」
「看護師 派遣」
「看護師 単発」
「看護師 人間関係 疲れた」
検索履歴は、私の悩みそのものだった。
一般クリニック。
美容クリニック。
訪問看護。
別の病院。
そして、派遣という働き方。
求人を眺めるだけの日々が、二ヶ月以上続いた。
「応募する」
というボタンを見つめながら、指が止まる。
そして、ため息と一緒に画面を閉じる。
そんな夜を何度も繰り返した。
私が欲しかったのは「逃げること」ではなく、距離を選べる働き方だった
派遣として働くべきなのか。
別の病棟へ転職するべきなのか。
それとも看護師そのものを離れるべきなのか。
考えれば考えるほど、分からなくなった。
時には、
「人間関係なんて、どこへ行ってもある」
「だったら今の病棟で、双方の顔色をうかがうことに慣れたほうが楽なのかもしれない」
そんなふうに考えたこともある。
けれど、求人を見続けながら、自分が本当に嫌だったものを少しずつ整理していった。
私は、誰とも関わりたくないわけではない。
人間関係そのものが嫌いなのでもない。
患者さんや同僚と協力して働くことは、むしろ好きだった。
私が苦しかったのは、仕事とは関係のない派閥争いに巻き込まれ、誰かの感情を調整することまで自分の役割にされていたことだった。
「もっと、仕事と人間関係の距離を自分で選べる働き方がしたい」
そう思った。
そして、看護師派遣という働き方が初めて現実的な選択肢に見えた。
職場を変えながら働く。
いろいろな現場を見る。
一つの組織だけの人間関係に深く縛られすぎない。
もちろん、不安定さもある。
毎回新しい環境に適応しなければならない。
それでも、
「今の私には、この働き方を一度試してみる価値があるかもしれない」
そう思った夜。
私は、派遣会社への登録ボタンを押した。
転職から3ヶ月。看護師派遣という新しい働き方
そして翌年の秋。
派遣という働き方を始めて三ヶ月が経った頃。
私は、かつて同じ病棟で働き、私の様子を気にかけてくれていた8年目ナースのあんこ先輩と、池袋のサンシャインシティ近くにあるオープンカフェにいた。
高層ビルの谷間を、乾いた秋風が吹き抜けている。
街路樹は赤や黄色に色づき、テラスの足元には何枚か落ち葉が転がっていた。
午後の日差しは夏のような強さを失い、少し傾いた柔らかな光がテーブルの上を照らしている。
「美咲ちゃん、なんだか表情がすごくすっきりしたね。病棟にいた頃の、いつも誰かの顔色を気にしてた感じがなくなった」
あんこ先輩が、温かいカフェラテのカップを両手で包みながら微笑んだ。
「本当ですか? でも今も結構必死ですよ。違う施設やデイサービス、クリニックに行くたびに、その職場のやり方を覚えなきゃいけないので」
私は少し照れながら笑った。
派遣にも大変さはある。「しがらみゼロ」の世界ではなかった
看護師派遣という働き方も、決して完璧ではなかった。
勤務先によってルールは違う。
物品の場所。
記録方法。
スタッフ同士の役割分担。
同じような業務でも、職場が変われば進め方が違う。
初めて行った施設では、
「これ、どこにありますか?」
と何度も聞かなければならない。
先日も有料老人ホームで、処置の流れを十分につかめず、常勤スタッフから、
「派遣さんなら、このくらいは分かると思ってました」
と言われ、ひどく落ち込んだ。
毎回違うメンバーと働く緊張感。
翌月の勤務日数がどうなるかという不安。
職場によっては、人間関係に気を使うことも当然ある。
派遣になれば、人間関係が完全になくなるわけではなかった。
けれど、一つ大きく違うことがあった。
「ずっとここにいなければならない」という感覚から解放された
「前みたいに、一つの病棟の人間関係にずっと巻き込まれ続ける感じがないんです」
私はあんこ先輩に話した。
「もちろん、勤務先で人間関係に気を使うことはあります。でも、この働き方だと、合わない場所なら次の契約や勤務をどうするか考えられる。ずっと同じ人間関係の中で耐え続けなきゃいけないっていう感覚が、前よりずっと少ないんです」
それだけではない。
介護施設。
デイサービス。
クリニック。
いろいろな現場で働いてみると、これまで急性期病棟しか知らなかった私の視野が広がった。
「こんな看護の働き方もあるんだ」
そう思うことが増えた。
急性期病棟で身につけた観察力や、優先順位を考える力も、違う現場でちゃんと役に立っている。
「大変なことはあります。でも今は、誰の派閥につくかを考えるより、今日の利用者さんに何が必要なのかを考える時間のほうがずっと多いんです。それだけで、すごく呼吸がしやすくなりました」
あんこ先輩は、
「うん、うん」
と静かに頷きながら聞いてくれていた。
「派遣にして大正解だったね」
とは言わない。
ただ、今の私の話を、そのまま受け止めてくれている。
6年間の病棟経験を捨てたのではなく、持ったまま違う場所へ進んだ
「転職活動中、本当に悩みました。6年目で働き方を変えるって、今まで積み上げたキャリアを途中で放り出すみたいな気がして」
私はテーブルの上の落ち葉を一枚、指先でそっと動かした。
「でも、いろんな職場で働いてみたら分かったんです。病棟での6年間がなくなったわけじゃないんですよね」
患者さんの顔色を見る。
いつもと違う変化に気づく。
急に体調が変わったとき、優先順位を考える。
スタッフに必要な情報を伝える。
そうしたことは、病院を離れても、自分の中に残っていた。
「劇的に人生が変わったわけじゃないし、今でも失敗した日は落ち込みます。でも、あの頃よりずっと呼吸がしやすい。自分で考えて、自分で今の働き方を選んだから、合わなければまた考えればいいって思えるようになったんです」
話し終えた私に、あんこ先輩はふわりと微笑み、カップを静かに置いた。
「そっか。美咲ちゃんが自分でたくさん考えて、その働き方を選んだんだもんね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に残っていた最後のトゲが、すっと抜けていくような気がした。
池袋のビルの間を、少し強い秋風が吹き抜けた。
赤や黄色に色づいた葉が、風に乗って歩道を舞っていく。
前年の秋。
同じ池袋の街を歩きながら、私は、
「この人間関係の中で、ずっと働き続けるしかないんだろうか」
と思っていた。
そして今年の秋。
私はまた池袋にいる。
けれど今は、一つの場所だけが自分の世界ではないと知っている。
一つの働き方だけを、ずっと選び続けなくてもいい。
迷ったら、また考えればいい。
違うと思ったら、また選び直せばいい。
秋風に舞う落ち葉を見ながら、私は少しだけ軽くなった足取りで歩き出した。
💙あんこからのあいさつ💙
今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?
今の職場で迷いながらも、自分が大切にしたい働き方を真剣に考えてみる。その結果として、残る選択をしても新しい道を選んでも、あなたが自分で悩んで歩き出した道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。
あなたの未来を守る「お守り」です。

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