アナザーストーリーver.1|人間関係と夜勤に疲れた。クリニックを選択肢した私の話

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白石 結衣・2年目(一般クリニック)


春の朝7時45分。

井の頭線の改札を出ると、吉祥寺の街はまだ半分眠っているようだった。駅ビルのシャッターは閉まり、足早に通り過ぎる通勤客の靴音が、いつもより少し静かに響いている。

吉祥寺御殿山へと向かう道には、柔らかな春の日差しが差し込んでいた。

桜の花びらが歩道の端に淡いピンク色の模様を作り、芽吹き始めた若葉の匂いを含んだ風が、私のトレンチコートの裾をふわりとかすめていく。

前年の春。

私が知っていた朝は、もっと容赦のない、焦燥感に満ちたものだった。


「なぜ?」の雨に降られていた、あの病棟

急性期病棟の2年目。

新人という立場から少しずつ離れ、かといって一人前と言えるほどの自信もない。

私にとっては、とても苦しい時期だった。

新人時代から私を指導してくれていた先輩は、仕事に対して誰よりも厳格な人だった。

申し送りの時間、私の前に立つ先輩の目がわずかに細められるだけで、心臓が跳ね上がった。

「白石さん、この患者さんのデータ、なぜこのタイミングで検温したの?」

「なぜ、先にこちらの指示受けをしなかったの?」

「なぜ」

「どうして」

投げかけられる言葉の一つひとつが、当時の私には、自分そのものを否定する言葉のように感じられた。

毎日が、終わりのない圧迫面接のようだった。

毎月の夜勤シフト表を見るたび、その先輩と一緒の勤務がないかを真っ先に確認する。

名前が並んでいるのを見つけると、胃の奥がすっと冷たくなった。

ある日、点滴の準備中に、緊張で手元が狂い、アンプルを床に落としてしまった。

ガラスが割れる乾いた音が、処置室に響いた。

粉々に砕けた破片を見つめながら、頭が真っ白になった。

「何やってるの。もう2年目でしょ」

通りかかった先輩の冷ややかな声が、頭の上から降ってきた。

その夜。

ワンルームのマンションに帰り、ナース服を洗濯機に放り込んだところで、涙が止まらなくなった。

明日の日勤が怖い。

夜勤で静まり返ったナースステーションにいるときも、また何かを指摘されるのではないかと思うだけで緊張した。

布団に入っても心臓が速く打ち、なかなか眠れないまま朝を迎える日もあった。

窓の外では、春を迎えた街路樹に新しい葉が芽吹いている。

それなのに、私だけが同じ場所に閉じ込められているような気がしていた。


ボタンを押せない指先と、夜の葛藤

「もう、辞めたいかもしれない」

そう思った瞬間、濁流のような罪悪感が押し寄せてきた。

まだ2年目。

「石の上にも三年」という言葉さえ頭をよぎった。

病棟経験が十分ではないまま離れたら、私は看護師として中途半端なままになってしまうのではないか。

ここまで教えてくれた病棟のスタッフや師長にも申し訳ない。

何より、

「2年目で辞めるなんて根性がない」

と思われることが怖くてたまらなかった。

そんな私を時々気にかけてくれていたのが、同じ病棟で働く6年先輩の、8年目ナースのあんこ先輩だった。

「結衣ちゃん、最近ちょっと元気ないけど、大丈夫?」

そう声をかけてもらっても、

「大丈夫です」

と笑って答えることしかできなかった。

本当は、全然大丈夫ではなかった。

ベッドの中で、スマートフォンの画面を暗くしては、また点ける日々が始まった。

「看護師 転職 2年目」

「クリニック 人間関係」

検索窓に、自分の不安をそのまま打ち込む。

画面には、たくさんの求人が並んでいた。

美容クリニック。

訪問看護。

一般内科。

健診センター。

けれど、どの求人の「応募する」ボタンも、私の指は押すことができなかった。

画面に書かれている魅力的な言葉を、そのまま信じることもできなかった。

もし次の職場でも人間関係で悩んだら。

もし転職して、

「やっぱり病棟に残ればよかった」

と思ったら。

今度こそ立ち上がれなくなるような気がした。

転職サービスの担当者から届くメッセージも、返信できないまま何日も過ぎていった。

本当に転職するべきなのだろうか。

異動を希望して、今の病院に残るべきなのか。

それとも、看護師そのものを一度離れて、まったく違う仕事を始めるべきなのか。

何が正解なのか分からない。

選択肢の迷路の中で、ただ求人サイトの文字を目で追うだけの夜が、一ヶ月以上続いた。

それでも、求人を見ながら考え続けるうちに、少しずつ自分の気持ちが見えてきた。

私は、今の職場が嫌だから、ただ逃げたいわけじゃない。

夜勤のたびに怯える生活ではなく、生活のリズムを整えたい。

患者さんと接するときも、

「次に怒られないように」

ではなく、

「この人に何が必要なんだろう」

と考えられる自分に戻りたい。

ただ、明日の朝、笑顔で「おはようございます」と言える。

そんな働き方を見つけたいだけだった。

そして私の目に留まったのが、吉祥寺にある地域密着型の内科・小児科クリニックだった。

「ここで、もう一度看護師を続けてみたい」

そう思った夜。

私は一ヶ月以上押せなかった「応募する」のボタンを、ようやく押した。


吉祥寺の春風と、少しだけ軽くなった呼吸

そして翌年の春。

現在の私は、吉祥寺にある地域密着型の内科・小児科クリニックで働いている。

ここが天国のような場所かと言われれば、決してそんなことはない。

病棟とは違い、少人数のスタッフで働くクリニックならではの距離の近さがある。

事務のベテランスタッフから、書類の書き方について、

「これ、前にも説明したよね?」

と少し厳しく言われて落ち込むこともある。

春先は、花粉症や季節の変わり目で体調を崩した患者さん、学校や保育園で感染症をもらってきた子どもたちなどで、待合室が混み合う日もある。

目が回るほど忙しく、仕事が終わる頃には足が棒になっている日もある。

クリニックには、クリニックなりの大変さがあった。

けれど、ここには、以前の病棟で感じていた「次は何を指摘されるんだろう」という息苦しさはなかった。

そして何より、夜勤がなくなった。

夜になれば眠り、朝になれば起きる。

当たり前のような生活のリズムが、私の中に少しずつ戻ってきた。

劇的な変化ではない。

ただ、ほんの少し、呼吸がしやすくなった。

それだけのこと。

けれど、その「それだけ」が、あの頃の私には何よりも必要だったのだ。

春の休日の午後。

駅前の賑やかな通りから少し外れた、静かなカフェのテラス席で、私はあんこ先輩と向かい合っていた。

テラスの横には若葉をつけ始めた木々が並び、柔らかな春の日差しがテーブルの上に木漏れ日を落としている。

グラスの中で、アイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。

「実はね、あのとき、本当に迷ったんです。残るべきか、辞めるべきか。2年目でクリニックに行くなんて、キャリアを捨てるようなものだって、誰かに言われるんじゃないかって」

私は、ストローの袋を小さく折りたたみながら、当時の胸の内をぽつぽつと打ち明けた。

あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、ただ静かに聞いていた。

時折、

「うん、うん」

と小さく頷きながら、温かい眼差しをこちらに向けている。

「でもね、今のクリニックで、いつも来てくれる患者さんから『看護師さん、いつもありがとうね』って言われたとき、私、看護師を続けていてよかったんだって思えたんです」

話し終えた私を見て、あんこ先輩はふっと柔らかく微笑んだ。

「結衣ちゃんが、自分でたくさん悩んで、自分で選んだ道だからね」

説教も、派手なアドバイスもない。

けれど、その短い言葉が、私のこれまでの葛藤をすべて包み込んでくれたような気がした。

正解の選択肢なんて、最初からどこにも用意されていないのかもしれない。

残ることも。

新しい場所へ進むことも。

自分で悩み、自分で選んだ道を、自分の正解にしていけばいい。

カフェを出ると、吉祥寺の街には暖かな春の午後の日差しが満ちていた。

桜の花びらが風に乗って歩道を滑り、芽吹いたばかりの若葉が柔らかな光を受けて輝いている。

前年の春。

病棟へ向かう朝、私は、

「今日も怒られるかもしれない」

と怯えながら歩いていた。

そして今年の春。

同じ看護師として、私は吉祥寺の街を歩いている。

看護師を辞めたわけではない。

ただ、自分が看護師として働き続けられる場所を、自分で選び直しただけだった。

春風が頬を撫でた。

私は久しぶりに、明日の朝も笑って「おはようございます」と言えそうな気がした。


💙あんこからのあいさつ💙

今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?

周りの目が気になって、一歩が踏み出せない夜もありますよね。でも、悩んだ時間は決して無駄にはなりません。残っても、新しい場所へ行っても、あなたが自分で選んだ道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。

最後は、あなたの未来を守る「お守り」です。

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