白石 結衣・2年目(一般クリニック)
朝7時45分。井の頭線の改札を出ると、吉祥寺の街はまだ半分眠っているようだった。駅ビルのシャッターは閉まり、足早に通り過ぎる通勤客の靴音が、いつもより少し静かに響く。
吉祥寺御殿山へと向かう坂道には、初夏の木漏れ日が揺れていた。青々とした緑の匂いを含んだ風が、私のトレンチコートの裾をかすめていく。
半年前までの私が知っていた朝は、もっと容赦のない、焦燥感に満ちたものだった。
「なぜ?」の雨に降られていた、あの病棟
急性期病棟の2年目。それは、新人という免罪符を失い、かといって一人前には程遠い、一番中途半端で苦しい時期だと思う。
私のプリセプターだった先輩は、仕事に対して誰よりも厳格な人だった。申し送りの時間、私の前に立つ先輩の目が、わずかに細められるだけで心臓が跳ね上がった。
「白石さん、この患者さんのデータ、なぜこのタイミングで検温したの?」
「なぜ、先にこちらの指示受けをしなかったの?」
「なぜ」「どうして」。投げられる言葉のすべてが、私という人間そのものを否定する刃のように感じられた。毎日が、終わりのない圧圧面接のようだった。毎月の夜勤シフト表を見るたびに、その先輩と重なる夜がないかを真っ先に確認し、名前が並んでいるのを見つけては、胃の奥がシベリアのように冷たくなった。
ある日、点滴の準備中に、手が震えてアンプルを床に落としてしまった。粉々に砕けたガラスの破片を見つめながら、頭が真っ白になった。
「何やってるの。もう2年目でしょ」
通りすがりの先輩の冷ややかな声が、頭上で弾けた。
その夜、ワンルームのマンションに帰り、ナース服を洗濯機に放り込んだところで、涙が止まらなくなった。明日の日勤が怖い。夜勤の静まり返ったナースステーションで、またあの言葉の雨に晒されるのかと思うと、布団に入っても心拍数が上がったまま、朝を迎えるようになっていた。
ボタンを押せない指先と、夜の葛藤
「もう、辞めたいかもしれない」
そう思った瞬間、濁流のような罪悪感が押し寄せてきた。
まだたったの2年目。世間一般で言われる「石の上にも三年」すら満たしていない。病棟経験が圧倒的に足りないまま逃げ出したら、私は看護師として一生、中途半端なままで終わるのではないか。せっかく育ててくれた病棟の他のスタッフや、師長に申し訳ない。何より、周囲から「根性がない」と後ろ指を指されるのが、怖くてたまらなかった。
ベッドの中で、スマホの画面を暗くしてはまた点ける日々が始まった。「看護師 転職 2年目」「クリニック 人間関係」――。検索窓に、自分の不安をそのまま打ち込む。
画面には、たくさんの求人が並んでいた。「アットホームな美容クリニック」「ママさんナース活躍中の訪問看護」「未経験歓迎の一般内科」。
けれど、どの求人の「応募する」ボタンも、私の指は押すことができなかった。
画面の向こうのキラキラした職場が、すべて嘘のように思えたし、もし次も同じように人間関係で失敗したら、今度こそ立ち上がれない気がしたからだ。
転職サイトのコーディネーターから届くメッセージを、既読にできないまま何日も放置した。
本当に転職するべきなのだろうか。それとも、異動を希望して、今の病院に残るべきなのか。あるいは、看護師そのものを一度辞めて、全く別の仕事を始めるべきなのか。
何が正解なのか分からず、選択肢の迷路の中で、ただ求人サイトの文字を目で追うだけの夜が、1ヶ月以上も続いた。
私は、今の職場が嫌だから逃げたいんじゃない。
ただ、明日、笑顔で「おはようございます」と言える、自分の働き方を見つけたいだけだった。
吉祥寺の風と、少しだけ軽くなった呼吸
現在の私は、吉祥寺にある地域密着型の内科・小児科クリニックで働いている。
ここが天国のような場所かと言われれば、決してそんなことはない。
病棟とは違い、少人数のスタッフで回すクリニックならではの距離の近さがある。お局的な事務のベテランさんに、書類の書き方で「これ、前も言ったよね?」とチクリと言われることもあるし、冬場の発熱外来の時期は、目が回るほどの忙しさで足が棒になる。
けれど、ここにはあの「なぜ?」と詰められる息苦しさはない。夜勤がなくなり、毎日同じ時間にベッドに入り、同じ時間に起きる生活が、私のすり減っていた心に少しずつ肉を付け直してくれた。劇的な変化ではない。ただ、ほんの少し、呼吸がしやすくなった。それだけのこと。けれど、その「それだけ」が、当時の私には何よりも必要だったのだ。
休日の午後。駅前の賑やかな通りから少し外れた、静かなカフェのテラス席で、私はあんこと向かい合っていた。
グラスの中で、アイスコーヒーの氷がカランと音を立てる。
「実はね、あの時、本当に迷ったの。残るべきか、辞めるべきか。2年目でクリニックに行くなんて、キャリアを捨てるようなものだって、誰かに言われそうで」
私は、ストローの袋を小さく折りたたみながら、当時の胸の内をぽつぽつと打ち明けた。
あんこは、私の話を遮ることなく、ただ静かに聞いていた。時折、「うん、うん」と小さく頷きながら、温かい眼差しをこちらに向けている。
「でもね、吉祥寺のクリニックで、おばあちゃん患者さんから『看護師さん、いつもありがとうね』って言われた時、あ、私、看護師を続けていて良かったんだって、初めて思えたんだ」
話し終えた私を見て、あんこはふっと柔らかく微笑んだ。
「結衣ちゃんが、自分で考えて、自分で選んだ道だからね。それでいいんだよ」
説教も、派手なアドバイスもない。けれどその短い言葉が、私のこれまでの葛藤をすべて包み込んで、肯定してくれたような気がした。
正解の選択肢なんて、最初からどこにも用意されていない。
残ることも、進むことも、自分で決めたことなら、きっとそれが新しい自分の正解になっていくのだ。カフェを出ると、吉祥寺の街には、暖かな午後の光が満ち溢れていた。
💙あんこからのあいさつ💙
今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?
周りの目が気になって、一歩が踏み出せない夜もありますよね。でも、悩んだ時間は決して無駄にはなりません。残っても、新しい場所へ行っても、あなたが自分で選んだ道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。
最後は、あなたの未来を守る「お守り」です。

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