アナザーストーリーver.2|人間関係や夜勤、終わらない残業に疲れた私が、迷い抜いた先に見つけた答え

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佐藤 翼・3年目(訪問看護)


春の柔らかな日差しが降り注ぐ三軒茶屋。

玉川通りの頭上を走る首都高速の高架下では、せわしなく行き交う車の音が低く響いている。

三軒茶屋の駅を降りて茶沢通りへと進むと、それまでの都会的な喧騒のなかに、どこか懐かしい街の空気が混じり始めた。

八百屋の店先には色鮮やかな春の果物が並び、まだ準備中の居酒屋からは出汁の香りが漂ってくる。

街路樹には淡い若葉が芽吹き、細い路地を自転車で駆け抜けていく人のあとを追うように、穏やかな春風が私の頬を優しく撫でていった。

一年前の春。

私が過ごしていた場所では、今よりもずっと時間が激しく、そして容赦なく流れていた。


「タイパ」を気にする余裕さえ奪う、2時間ずつの空白

大学病院の急性期病棟で3年目を迎えていた。

新人時代をなんとか乗り越え、一通りの業務を任されるようになり、新人から質問を受けたり、フォローを頼まれたりすることも少しずつ増えていた。

周囲からは、

「翼くんも、もう3年目だもんね」

なんて言われる。

けれど、私の心の中は、いつも空っぽだった。

朝は始業よりずっと早く病棟へ入る。

患者さんの情報を確認し、その日の処置や検査の予定を頭に入れておかなければ、勤務が始まってからついていけないような気がしていた。

そして夜は、定時を過ぎても多くのスタッフが記録を続けている。

自分の仕事が終わっても、

「先輩たちがまだ残っているのに、自分だけ帰っていいのだろうか」

そんな空気を勝手に感じ取り、なかなか席を立つことができなかった。

結果として、朝も夜も、勤務時間の前後に長い時間を病院で過ごしていた。

「翼くん、まだ終わらないの? もう3年目なんだから、もう少し要領よくやらないと」

夜勤明けの疲れ果てた頭に、先輩の何気ない一言が突き刺さる。

日々、命と向き合う緊張感には、少しずつ慣れてきた。

けれど、

「なぜこんなに早く来なければならないんだろう」

「なぜ仕事が終わっても帰りにくいんだろう」

という疑問には、どうしても慣れることができなかった。

「タイパ悪すぎるな……」

そんな言葉で笑い飛ばそうとする自分と、それでもこの環境に順応できない自分。

夜勤明けの重い体を引きずるたび、虚しさだけが積み重なっていった。

ある春の夜勤。

急変が重なり、病棟中が慌ただしい声とモニター音に包まれた。

ようやく朝を迎え、へとへとになってナースステーションの椅子に腰を下ろす。

窓の外を見ると、柔らかな朝日を受けた桜の花が風に揺れていた。

世の中は新しい季節を迎えているのに、自分だけが同じ場所に取り残されているような気がした。

「僕の人生、このままでいいんだろうか」

涙は出なかった。

ただ、乾いたため息だけがこぼれた。

何のために、誰のために働いているのか。

それすら、分からなくなり始めていた。


画面の向こうの選択肢と、動かない指先

「辞める」

という選択肢が頭に浮かんだとき、真っ先に胸を突いたのは、強い罪悪感だった。

3年目になり、ようやく一通りの業務を覚え、病棟でも一人のスタッフとして数えられるようになった。

ここで私が抜けたら、ただでさえ忙しい病棟で、一緒に働く人たちにさらに負担をかけるのではないか。

それに、大学病院という大きな組織を離れることへの恐怖もあった。

「病棟経験がまだ3年なのに、外へ出て通用するんだろうか」

「急性期を離れたら、今まで身につけたことが無駄になるんじゃないか」

そんな不安が、次々と頭に浮かんでくる。

さらに、

「男なのに根性がないと思われるんじゃないか」

という周囲の目まで、勝手に想像していた。

そんな私の様子を気にかけてくれていたのが、同じ病棟で働く5年先輩の、8年目ナースのあんこ先輩だった。

「翼くん、最近ちょっと疲れてない?」

そう聞かれても、

「大丈夫ですよ」

と笑って答えることしかできなかった。

本当は、全然大丈夫ではなかった。

夜、1Kの部屋のベッドで、スマートフォンの画面を見つめるだけの日々が始まった。

「看護師 転職 3年目」

「訪問看護 働き方」

「美容クリニック ワークライフバランス」

検索窓に打ち込む言葉は、そのまま私の迷いだった。

求人サイトには魅力的な言葉が並んでいる。

美容クリニック。

一般クリニック。

健診センター。

そして、仕事と生活のメリハリを大切にしているという訪問看護ステーション。

けれど、どの求人を開いても、「応募する」という最後の一歩が踏み出せなかった。

本当に今の場所を離れていいのか。

単に自分が甘えているだけではないのか。

いっそのこと看護師免許を机の奥にしまい込んで、まったく違う仕事を始めたほうがいいのではないか。

複数の選択肢の間で思考はぐるぐると空回りし、ただ時間だけが過ぎていった。

一ヶ月以上、私は求人画面を見続けた。

そして、その間にようやく分かってきた。

私は、今の職場からただ逃げ出したいわけじゃない。

自分が大切にしたい「時間」と「看護」を、もう一度自分の手で選び取りたかったのだ。

患者さん一人ひとりの生活そのものに入り込み、その人が自宅で暮らし続けるための看護をしてみたい。

その思いに気づいたとき、何度も眺めていた三軒茶屋の訪問看護ステーションの求人が、初めて違って見えた。

「ここで働いてみたい」

そう思った夜。

私はようやく、「応募する」のボタンを押した。


三軒茶屋の路地裏で、少しだけ深くなった呼吸

そして翌年の春。

現在の私は、三軒茶屋の住宅街にある小さな訪問看護ステーションで働いている。

ここが何一つ不満のない完璧な職場かと言われれば、もちろんそんなことはない。

病棟時代のように、ただ周囲が残っているという理由だけで帰りにくい空気はなくなった。

訪問を終えて記録や必要な業務を済ませれば、

「お疲れさまでした」

と、それぞれが仕事を終えて帰っていく。

けれど、訪問看護には訪問看護なりの難しさがあった。

利用者さんの自宅へ一人で訪問し、その場でまず自分が状態を見て、何が起きているのかを判断する。

迷ったときや緊急性があるときには、ステーションへ連絡して先輩や管理者に相談できる。

それでも、目の前にいる利用者さんに最初に向き合うのは自分だ。

その責任の重さに、今でも緊張することがある。

以前、男性看護師に慣れていない一人暮らしの利用者さんから、

「男の看護師さんじゃなくて、女性の人がいいんだけどな」

と玄関先で言われ、どう対応すればいいのか分からなくなったこともあった。

ステーションへ戻って相談すると、

「最初はそういうこともあるよ。無理に距離を縮めなくていいから、少しずつ信頼してもらおう」

と先輩が教えてくれた。

病棟とはまったく違う種類の悩みに、頭を抱える日も少なくない。

それでも、ここでは利用者さん一人ひとりの生活に触れることができる。

玄関を開けた瞬間の表情。

冷蔵庫の中身。

薬がきちんと飲めているか。

家の中を歩くときの足取り。

病棟では見えなかった、その人の「暮らし」が目の前にある。

「病気を見るんじゃなくて、その人の生活を支えるって、こういうことなのか」

少しずつ、そう思えるようになった。

劇的に人生が変わったわけではない。

今でも失敗するし、仕事が終わればぐったりする日もある。

けれど、以前よりほんの少し、呼吸がしやすくなった。

春の休日の午後。

三軒茶屋の喧騒から少し離れた路地裏のカフェで、私はあんこ先輩と向かい合っていた。

店の窓の向こうでは、街路樹の若葉が柔らかな春の日差しを受けて揺れている。

古い木製のテーブルの上で、注文したチャイの湯気が静かに立ち上り、ときおり開いた窓から入る春風にゆらりと揺れた。

「本当に迷ったんですよ。病棟を辞めるときは、裏切り者みたいな気分だったし、訪問看護でやっていける自信なんて、ほとんどなかったです」

私はスプーンでカップをそっと回しながら、あの頃の葛藤を言葉にした。

あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、静かに聞いていた。

「うん、そうだよね」

と、小さく微笑みながら耳を傾けてくれる。

「でも、自分でじっくり考えて、この働き方を選んだから。大変なこともありますけど、今は後悔してないです」

私の近況報告を聞き終えると、あんこ先輩は温かい目で私を見つめた。

そして、短く、けれど確かに受け止めるように言った。

「翼くんが、自分で考えて決めたことだもんね」

アドバイスも、説教もない。

けれど、その一言が、夜な夜なスマートフォンの画面を見つめていたあの頃の私の選択を、優しく肯定してくれた気がした。

残ってもいい。

辞めてもいい。

大切なのは、誰かの目ではなく、自分がどう生きたいのか、自分がどんな看護をしたいのかを、自分で考えることなのかもしれない。

カフェを出ると、夕暮れの三軒茶屋にはまだ春の明るさが残っていた。

西日に照らされた若葉が鮮やかに輝き、細い路地を柔らかな風が吹き抜けていく。

一年前の春。

大学病院の窓から桜を眺めながら、

「僕の人生、このままでいいんだろうか」

と考えていた。

そして今、同じ春の風のなかを歩いている。

あの頃と何もかもが変わったわけではない。

ただ、自分で選んだ道を、自分の足で歩いている。

それだけで、三軒茶屋の春の街は、以前より少しだけ明るく見えた。


♡あんこからのあいさつ♡

今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?

周りの目が気になって、応募ボタンを押せない夜もありますよね。でも、悩んで迷った時間は、あなたが自分を大切にしようとした証拠です。自分で選んだ道なら大丈夫かもしれない。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。

最後は、あなたの未来を守る「お守り」です。

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