松本 香織・7年目(小児科・内科クリニック)
夏の朝、強い日差しを受けた街路樹の濃い緑が風に揺れる中、私はいつものように病院の正面玄関へと向かっていた。朝だというのに空気にはすでに湿った暑さがまとわりつき、白衣の入ったバッグを持つ手にもじんわりと汗がにじむ。
看護師として7年目を迎え、病棟では中堅からベテランへと差しかかる立ち位置になっていても、毎朝ナースステーションの自動ドアを開ける瞬間の、あの胃がキリキリと収縮するような緊張感だけは変わらない。白衣に着替えながら深く息を吐き出すのが、ここ数年の私の消えないルーティンになっていた。
看護師7年目。仕事よりも「人間関係」に疲れていた
私の心を限界まで削っていたのは、急性期病棟特有の夜勤の負担や急変対応の忙しさそのものではなかった。それは、病棟内に何年も根を張る、お局の先輩ナースを中心とした泥沼のような人間関係だった。
7年目ともなれば現場の動きは十分に分かっているはずなのに、毎日まずやらなければならないのは、その日のお局の「機嫌のバイタルサイン」をチェックすることだった。
「松本さん、これ私がやるはずだった記録なんだけど、ちょっと時間ないから代わりに打っておいて。あと、あっちの部屋の検温もよろしく」
そう言って、機嫌の悪いお局から当然のように押し付けられる、彼女自身のやり残した仕事の数々。
理不尽だとは分かっていても、病棟のパワーバランスを崩さないためには、笑顔で「分かりました」と引き受けるしかなかった。
通常業務に加えて押し付けられた雑務をさばき、タイムカードを切ったあともナースステーションの片隅で黙々と書類を片付ける日々。自己犠牲のうえに成り立つ奇妙な調和の中に身を置きながら、私は猛烈な虚しさに襲われていた。
「私のこれまでのキャリアと知識は、お局の機嫌を取り、彼女の穴埋めをするためにあるのだろうか」
そんな澱のような疑問が、夜勤明けの疲れ果てた頭の中で、消えない足枷のようにずっと重く沈んでいた。
「私が辞めたら後輩はどうなる?」7年目だからこその罪悪感
しかし、いざ「このしがらみを断ち切ろう」と決意してからの数ヶ月間は、暗い霧のなかで足がすくむような葛藤の連続だった。
何よりも私を縛り付けたのは、7年目という立場だからこその強烈な罪悪感だった。病棟では委員会やリーダー業務の要となり、新人や2年目の看護師、そのプリセプターを精神的に支える立場にもなっていた。
このタイミングで自分が抜ければ、ただでさえ人手不足の病棟がさらに混乱し、後輩たちに大きな負担をかけることになる。
「無責任だ」
「7年目にもなって自分勝手だ」
そんなふうに周囲から冷たい目を向けられるのが怖くて、勤務中はいつも周囲の顔色をうかがっていた。
「7年目で転職して大丈夫?」一つの病院しか知らない不安
それに、「これまで一つの大病院でしか働いたことがない」という経験への不安も私の足をすくませた。
最前線の急性期から離れてしまったら、これまで身につけてきた看護技術や経験が生かせなくなってしまうのではないか。病院とは規模も役割も違うクリニックで、自分は本当に通用するのだろうか。
結局、夜ベッドに入ってから、スマートフォンで看護師転職サイトの求人画面をただスクロールして眺めるだけの日々が二ヶ月以上も続いた。
良さそうな一般クリニックの求人を見つけても、画面の「応募ボタン」がどうしても押せない。指先が画面の上で静止したまま、ため息とともにアプリを閉じる夜が何度も繰り返された。
迷いはそれだけではなかった。美容クリニックにするべきか、夜勤のない訪問看護に挑戦するべきか、それとも一般クリニックで働くべきか。複数の転職先候補の間で、私の思考は完全に迷子になっていた。
時には「転職なんて大きなリスクを冒さず、今の病棟でお局の機嫌を完璧にいなしながら、このまま耐え続けるほうが一番傷つかないのかもしれない」と、現状維持の選択肢へ逃げたくなる瞬間も何度もあった。
私が求めていたのは「対等に協力し合える職場」だった
それでも、私はただ「目の前の人間関係が嫌だから」辞めるのではないと気づいた。
私は、誰かの機嫌や理不尽なしがらみにエネルギーを注ぐのではなく、一人の医療従事者として、スタッフ同士が対等に意見を出し合い、協力できる環境で働きたいのだ。
誰かにとって都合の良い存在として消費されるのではなく、フラットな関係の中で患者さんのケアに向き合いたい。
その大切な軸に気づいたとき、私の目に留まったのが、タワーマンションが立ち並ぶ武蔵小杉に新しく開業する、小児科・内科クリニックの求人だった。
オープニングスタッフの募集。
まだ出来上がった人間関係も、長年続いてきた上下関係もない。
「ここなら、みんなで一から職場を作っていけるかもしれない」
そう思ったとき、二ヶ月以上押せなかった「応募ボタン」を、私はようやく自分の指で押すことができた。
転職から3ヶ月。新規開業のクリニックで働く私
転職から三ヶ月が経った夏の昼下がり。私は、かつて同じ病棟で働き、私より一年先輩だった8年目ナースのあんこ先輩と、武蔵小杉駅近くのタワービルの合間にあるオープンカフェのテラス席にいた。
ガラス張りの高層ビルには真夏の強い日差しが反射し、街路樹の濃い緑がまぶしく輝いている。日傘を差す人やベビーカーを押す家族連れが行き交い、時折ビルの谷間を抜ける風が、まとわりつくような夏の暑さを少しだけ和らげていた。
「香織ちゃん、なんだか表情がすごくすっきりしたね。病棟にいた頃の、あのいつも何かに耐えているような張り詰めたオーラがすっかり抜けてる」
あんこ先輩が、冷たいアイスラテのグラスを傾けながら、優しく微笑んだ。
「本当ですか? でも、今の職場でも毎日新しいシステムを整えたり、オープニングスタッフ同士でルールをすり合わせたりしていて、必死なんですけどね」
私は少し照れくさそうに笑った。
新しい職場にも難しさはある。それでも以前とは違う
新しく始めたクリニックでの仕事は、決してすべてが完璧な魔法の楽園というわけではなかった。
急性期病棟ほど複雑な医療処置や急変対応に追われる場面は多くない一方で、ここではゼロから組織を作り上げていく難しさがある。
マニュアルがまだ完成していない部分も多く、スタッフ同士のちょっとした認識の違いから業務が滞ることもある。
先日も患者さんの待ち時間を長引かせてしまい、院長から改善を求められ、自分の段取りの未熟さにひどく凹んだばかりだった。
少人数だからこそ人間関係の距離も近く、地域に根ざした小児科・内科クリニックならではの忙しさもある。病棟とはまた違う種類の緊張感と難しさがあった。
けれど、その失敗や悩みは、病棟時代に感じていた「誰かの機嫌に振り回され続ける息苦しさ」とは、まったく異なる性質のものだった。
「大変なことはありますけど、今のクリニックでは、何か問題が起きたら『誰が悪かったのか』じゃなくて、『これからどう良くしていくか』をみんなで話し合えるんです。誰かの機嫌を読んでから意見を言う必要もない。それだけで、すごく救われています」
あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、「うん、うん」と静かに頷いて聞いてくれていた。
「転職して大正解だったね」と安易に太鼓判を押すわけでもなく、私の今の等身大の言葉を、そのまま温かく受け止めてくれている。
7年積み上げた経験は、新しい場所でも私の力になった
「転職活動中、7年目で環境を変えることが本当に怖くて、夜通し求人サイトを見るだけで終わる日もありました。でもね、先輩。あの時、周囲の目や不安に怯えながらも、自分が大切にしたい働き方を考え抜いたからこそ、今の場所があるんだって思えます」
私はアイスラテのグラスに浮かぶ氷を見つめながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「病棟で過ごした7年間が無駄になったわけじゃないんです。患者さんの小さな変化に気づく力も、急な体調変化への対応も、患者さんやご家族との接し方も、後輩を支えてきた経験も、今のクリニックでちゃんと役に立っています。劇的に人生がキラキラしたわけじゃないし、今でも自分の力不足に悩む日はあります。でも、あの頃に比べたら、すごく呼吸がしやすくなりました。自分で悩んで、自分で選んだ道だから、どんな失敗も前向きに受け止められるんです」
話し終えた私に、あんこ先輩はふわりと微笑み、静かにグラスを置いた。
「そっか。香織ちゃんが自分でたくさん考えて、その道を選び取ったんだもんね」
その短い、けれど私の歩んできた道のりのすべてを肯定してくれるような言葉に、胸の奥に残っていた最後のトゲがすっと消えていくのを感じた。
武蔵小杉の高層ビルの間を抜けてきた夏の風が、汗ばんだ頬を優しく撫でていく。強い日差しの下を歩いてきたときとは違い、その風はどこか心地よく、私の胸の奥に残っていた重さまで、遠くへ運び去ってくれるようだった。
💙あんこからのあいさつ💙
今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?
今の職場で迷いながらも、自分が大切にしたい働き方を真剣に考えてみる。その結果として、残る選択をしても新しい道を選んでも、あなたが自分で悩んで歩き出した道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。
あなたの未来を守る「お守り」です。

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