新井 遥香・4年目(介護老人保健施設)
初夏の朝、すっきりと晴れ渡った青空の下、街路樹の若葉が朝の日差しを受けて鮮やかに輝いていた。午前七時半。少し湿り気を含んだ風が頬を撫でるなか、遠くから救急車のサイレンが聞こえてくる。
私は駅の階段を重い足取りで上っていた。
病院が近づくにつれて、足元がすくむような、何とも言えない緊張感が毎朝私の胃をきりきりと締め付ける。
ナースステーションに入るための自動ドアの前に立つと、いつも大きく一つ深呼吸をしなければ、一歩を踏み出すことができなかった。
「急性期に向いてない」スピードについていけない毎日
私の職場である急性期病棟は、次々と状況が変化し、そのたびに素早い判断を求められる場所だった。
看護師として4年目を迎えたものの、私はもともと複数の仕事を同時に器用にこなせるタイプではない。
次々と舞い込む点滴の指示、急なオペ出し、鳴り止まないナースコール。
それらの優先順位を瞬時に判断し、テキパキと動くことが、この病棟では当たり前のように求められていた。
「新井さん、まだその処置終わってないの? トロすぎる。急性期向いてないんじゃない?」
先輩ナースからの冷ややかな視線と、すれ違いざまに投げかけられる言葉。
その言葉を聞くたびに、私は喉の奥がキュッと詰まるような思いをしていた。
患者さんの話をもう少しじっくり聞きたい。
もっと丁寧にケアをしたい。
そう思っても、次の処置、次の点滴、次のナースコールが待っている。
毎日、先輩たちの視線を気にしながら、ナースステーションの片隅で必死に涙をこらえる日々。
「私がやりたかった看護って、こんなふうに時間に追われて、患者さんの顔を見る余裕もなく仕事をこなすことだったっけ」
そんな自己嫌悪と疑問が、夜勤明けの疲れ果てた頭の中に、消えない足枷のようにずっと重く沈んでいた。
「私が辞めたら迷惑をかける」4年目の私を縛った罪悪感
しかし、いざ「この環境を変えよう」と決意してからの日々は、深い葛藤の霧の中をさまようようだった。
何よりも私を縛り付けたのは、強烈な罪悪感だった。
4年目になり、一人のスタッフとして仕事をこなすだけでなく、後輩の相談に乗ったり、リーダー業務を任されたりする機会も少しずつ増えていた。
このタイミングで自分が抜ければ、ただでさえ人手不足の病棟で、一緒に働く人たちの負担がさらに増えてしまうのではないか。
先輩たちから、
「無責任だ」
「やっぱり急性期では続かなかったんだ」
と思われるのではないか。
そんな周囲の目が怖くて、勤務中はいつも誰かの視線を気にしていた。
同じ病棟には、私より4年先輩の8年目ナース、あんこ先輩がいた。
私が何度も先輩から注意されている姿も、勤務後に落ち込んでいる姿も、ずっと見てくれていた人だった。
「遥香ちゃん、最近ちょっと疲れてない?」
そう声をかけてもらっても、
「大丈夫です」
と笑うことしかできなかった。
本当は、大丈夫ではなかった。
「急性期を離れて大丈夫?」消えなかったキャリアへの不安
それに、「急性期のスピードについていけなかった」という挫折感は、やがて自分のキャリアそのものへの不安へと変わっていった。
4年間、急性期病棟で身につけてきた観察力や医療処置の経験。
そこから離れてしまったら、技術が衰えてしまうのではないか。
もし将来もう一度病院で働きたいと思ったとき、戻ることが難しくなるのではないか。
そんな恐怖が頭を離れなかった。
結局、夜ベッドに入ってから、スマートフォンで看護師転職サイトの求人画面をただスクロールして眺めるだけの日々が二ヶ月以上も続いた。
魅力的な条件を見つけても、画面の「応募ボタン」がどうしても押せない。
指先が画面の上で静止したまま、ため息とともにアプリを閉じる夜が何度も繰り返された。
複数の転職先候補の間でも、私の思考は完全に迷子になっていた。
規則正しい一般クリニックにするべきか。
夜勤のない訪問看護か。
それとも美容クリニックか。
時には、
「転職なんて大きなリスクを冒さず、今の病棟でもう少し頑張っていれば、いつかこのスピードについていけるようになるのかもしれない」
と、現状維持の道へ戻りたくなる瞬間も何度もあった。
私がしたかったのは「ゆっくり寄り添う看護」だった
それでも、私はただ「今の職場が嫌だから」辞めるのではないと気づいた。
私は、スピードだけを追い求めるのではなく、一人の人間として患者さんや利用者さんにじっくりと寄り添う看護がしたいのだ。
病気や処置だけを見るのではなく、その人がどんな人生を歩んできたのか。
今、どんな毎日を送っているのか。
これから、どんな生活を取り戻したいと思っているのか。
そこまで含めて支える看護がしたい。
その大切な軸に気づいたとき、私の目に留まったのが、落ち着いた住宅街が広がる荻窪にある介護老人保健施設(老健)の求人だった。
病院での治療を終えた利用者さんが、その人らしい生活へ戻っていくための時間を、看護師として支えていく。
「ここなら、私がやりたかった看護に近づけるかもしれない」
そう思ったとき、私はようやく「応募ボタン」を押すことができた。
転職から3ヶ月。急性期病棟から老健へ
転職から三ヶ月が経った初夏の昼下がり。
私は、かつて同じ病棟で働き、私の苦悩をずっと気にかけてくれていた8年目ナースのあんこ先輩と、荻窪の並木道沿いにある、レトロで落ち着いた雰囲気の喫茶店にいた。
窓の外では、初夏の日差しを受けた街路樹の若葉が鮮やかに輝いている。
開けられた窓から時折入ってくる爽やかな風と、店内に静かに流れるクラシック音楽が、心地よい時間を作っていた。
「遥香ちゃん、なんかすごく雰囲気が柔らかくなったね。病棟にいた頃の、いつも何かに怯えているような張り詰めた感じがなくなってる」
あんこ先輩が、アイスコーヒーのグラスを傾けながら、優しく微笑んだ。
「本当ですか? でも、今の職場でも毎日たくさんの利用者さんの健康管理や皮膚トラブルの処置、介護スタッフとの連携に追われていて、必死なんですけどね」
私は少し照れくさそうに笑った。
老健にも大変さはある。それでも病棟時代とは違う
新しく始めた老健での仕事は、決してすべてが完璧な魔法の場所というわけではなかった。
急性期病棟ほど、次々と処置や急変対応に追われる場面は多くない一方で、ここでは利用者さんの生活全体を見ながら、小さな体調変化を見逃さない観察力が求められる。
認知症のある利用者さんへの対応や、介護スタッフ、リハビリ職、医師などとの連携も欠かせない。
先日も、ある利用者さんの食欲や表情のわずかな変化を見逃しそうになり、先輩ナースから、
「こういう小さな変化も大切だからね」
と教えてもらった。
その日は、自分の観察力の未熟さにひどく落ち込んだ。
けれど、その失敗や悩みは、あの病棟時代に感じていた「自分のペースも、自分が大切にしたい看護も、すべて否定されているような苦しさ」とは、まったく異なる性質のものだった。
「大変なことはありますけど、今の老健では、利用者さん一人ひとりのこれまでの人生や、これからの暮らしに向き合えるんです」
私は少し笑った。
「昨日までできなかったことが、リハビリを続けて少しできるようになったり、『今日はご飯がおいしかったよ』って笑ってもらえたり。そういう小さな変化を一緒に喜べるんです。処置をどれだけ早く終わらせるかだけじゃなく、その人がどうすればその人らしく生活できるのかを考えられる。それが、すごく嬉しいんです」
あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、
「うん、うん」
と静かに頷きながら聞いてくれていた。
「転職して正解だったね」と安易に太鼓判を押すわけでもなく、私の今の等身大の言葉を、そのまま温かく受け止めてくれている。
「向いていない」のではなく、合う場所が違っただけ
「転職活動中、キャリアのことで本当に悩んで、夜通し求人サイトを見るだけで終わる日もありました。でもね、先輩。あのとき、周囲の目を怖がりながらも、自分が大切にしたい看護を考え抜いたからこそ、今の場所があるんだって思えます」
私はアイスコーヒーのグラスについた水滴を眺めながら、ゆっくりと言葉を続けた。
「急性期で過ごした4年間が無駄になったわけでもないんです。患者さんの状態を観察することも、何かあったときに優先順位を考えることも、今の老健でちゃんと役に立っています」
そして、少し笑った。
「劇的に人生がキラキラしたわけじゃないし、今でも自分の力不足に悩む日はあります。でも、あの頃に比べたら、すごく呼吸がしやすくなりました。私が看護師に向いていなかったわけじゃなくて、自分が大切にしたい看護と、あの病棟の働き方が少し合っていなかっただけなのかもしれません」
話し終えた私に、あんこ先輩はふわりと微笑み、静かにグラスを置いた。
「そっか。遥香ちゃんが自分でたくさん考えて、自分に合う場所を選び取ったんだもんね」
その短い、けれど私の歩んできた道のりのすべてを肯定してくれるような言葉に、胸の奥に残っていた最後のトゲがすっと消えていくのを感じた。
荻窪の並木道に、初夏の風がゆっくりと吹き抜けていく。
窓の向こうで、鮮やかな若葉がさらさらと揺れていた。
少し湿り気を含みながらも、まだ真夏ほど重くない風が、私の頬を優しく撫でる。
その風が、急性期病棟にいた頃からずっと胸の奥に抱えていた「私は看護師に向いていないのかもしれない」という思いまで、静かに遠くへ運び去ってくれるようだった。
💙あんこからのあいさつ💙
今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?
今の職場で迷いながらも、自分が大切にしたい働き方を真剣に考えてみる。その結果として、残る選択をしても新しい道を選んでも、あなたが自分で悩んで歩き出した道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。
あなたの未来を守る「お守り」です。

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