小林 詩織・4年目(健診センター)
春の日曜日の朝。すっきりと晴れ渡った東京の空から柔らかな日差しが降り注ぎ、歩道沿いの桜は淡いピンク色の花を咲かせていた。ときおり吹く風に花びらが舞い、休日を楽しむ人たちが軽やかな足取りで街を行き交っている。
本来なら、一週間の勤務を終えて心身を休めるための貴重な休日だ。
しかし、私の足取りは鉛のように重く、視線はアスファルトの隙間に向いたままだった。
向かっているのは、自分が勤務する総合病院の講堂だった。
休日まで奪われる「自己研鑽」という名の院内事例研究
私の心を限界まで削っていたのは、夜勤の負担や日々の忙しい業務だけではなかった。
看護師として4年目を迎え、ひと通りの業務をこなせるようになった私には、病棟業務以外の役割も少しずつ増えていた。
その一つが、院内事例研究だった。
「小林さん、このパワポのグラフ、データの根拠が弱いんじゃない? あとフォントも修正して、明日までに再提出ね」
師長からの指摘を受けるたび、私の夜は削られていった。
通常業務が終わったあとも、ナースステーションの片隅でパソコンの画面とにらみ合う。
時には休日にも自宅でスライドを修正した。
職場では「自己研鑽」という言葉で説明されていたけれど、私には、自分の意思で自由に取り組んでいる勉強とは思えなくなっていた。
同期たちがプライベートの時間を楽しんでいるなか、私は部屋の隅でひたすらパワーポイントの修正を繰り返していた。
「私の看護師としての人生は、患者さんと向き合うためではなく、このスライドの文字を細かく直すためにあるのだろうか」
そんな疑問が、一度芽生えると頭から離れなくなった。
病棟の人間関係。
次々と増えていく役割。
勤務時間の外にまで入り込んでくる仕事。
夜勤明けの抜け殻のような体で、パソコンの「保存」ボタンをクリックした瞬間、私の中で何かが静かに、プツリと音を立てて切れた。
「辞めたい」のに動けない。私を縛った罪悪感
けれど、そこからすぐに次の行動を起こせたわけではない。
私の心は、長い間、深い葛藤の渦の中にあった。
まず私を縛り付けたのは、強烈な罪悪感だった。
4年目になり、自分の受け持ち業務だけでなく、後輩から相談を受けたり、リーダー業務や委員会活動を任されたりする機会も少しずつ増えていた。
このタイミングで自分が抜ければ、ただでさえ忙しい病棟で、一緒に働く人たちにさらに負担をかけてしまうのではないか。
先輩たちから、
「無責任だ」
「4年目なのに」
と思われるのではないか。
そんな周囲の目が怖くて、毎日ナースステーションでは誰かの顔色を気にしていた。
同じ病棟には、私より4年先輩の8年目ナース、あんこ先輩がいた。
遅くまでパソコンに向かっている私を見つけて、
「詩織ちゃん、まだ研究の資料やってるの?」
と何度も声をかけてくれた。
「はい。でも大丈夫です」
私はいつも笑って答えていた。
本当は、全然大丈夫ではなかった。
「病棟経験4年で転職していい?」消えなかったキャリアへの不安
それに、急性期病棟を4年目で離れることへの不安も、私の足をすくませた。
ここで急性期を離れたら、これまで身につけてきた看護技術が衰えてしまうのではないか。
健診センターやクリニックへ転職したあと、もう一度病棟で働きたいと思ったとき、戻るのが難しくなるのではないか。
そんな不安が頭を離れなかった。
結局、転職サイトのアプリをダウンロードしたものの、求人をただスクロールして眺めるだけの日々が二ヶ月以上続いた。
気になる条件を見つけても、最後の「応募ボタン」がどうしても押せない。
指先が画面の上で止まったまま、ため息と一緒にアプリを閉じる。
そんな夜を何度も繰り返した。
迷いはそれだけではなかった。
規則正しい働き方ができそうなクリニックか。
夜勤のない訪問看護か。
美容クリニックか。
それとも健診センターか。
複数の転職先候補の間で、私の思考は完全に迷子になっていた。
時には、
「こんなに悩むくらいなら、今の病棟でもう少し頑張って、事例研究が終わるのを待ったほうがいいのかもしれない」
と、現状維持の道へ戻りたくなる瞬間もあった。
「逃げたい」のではなく、自分の看護と時間を取り戻したかった
それでも求人を見続け、自分がこれからどう働きたいのかを考えていくうちに、一つのことに気づいた。
私はただ、「目の前の嫌なことから逃げたい」わけではない。
仕事だけで一日が終わる生活ではなく、自分自身の時間も大切にしたい。
そして、病気になった人を支える看護だけではなく、病気を予防し、健康な生活を続けるためのサポートにも関わってみたい。
その大切な軸が見えてきたとき、私の目に留まったのが、大手町にある健診センターの求人だった。
健康診断を通して、病気の早期発見や生活習慣を見直すきっかけを支える。
「ここなら、病棟で身につけた経験を活かしながら、違う形の看護ができるかもしれない」
そう思ったとき、私は二ヶ月以上押せなかった「応募ボタン」を、ようやく押すことができた。
転職から3ヶ月。大手町の健診センターで働く私
転職して三ヶ月が経った春の午後。
私は、かつて同じ病棟で働き、私の葛藤をずっと気にかけてくれていた8年目ナースのあんこ先輩と、大手町のビル街の合間にあるオープンカフェのテラス席にいた。
ガラス張りの高層ビルには柔らかな春の日差しが反射し、ビルの谷間に植えられた木々には鮮やかな新緑が広がっている。
時折吹き抜ける春風が若葉を揺らし、行き交うビジネスパーソンたちの足音と混ざって、心地よい都会のテンポを作っていた。
「詩織ちゃん、なんだか表情がすっきりしたね。病棟にいた頃の、あの張り詰めた感じがすっかり抜けてる」
あんこ先輩がカフェラテのカップを両手で包みながら、優しく目を細めた。
「そうですか? でも、毎日たくさんの受診者さんに対応しているので、仕事が終わる頃には足がパンパンなんですけどね」
私は気恥ずかしさを隠すように、小さく笑った。
転職先にも大変さはある。それでも「違う」と感じたこと
新しくスタートした大手町の健診センターでの仕事も、決してすべてが完璧な場所というわけではなかった。
限られた時間のなかで、多くの受診者さんを安全かつスムーズに案内していく。
採血や検査の介助、問診、結果に関する説明の補助など、一日の流れは想像していた以上に速かった。
急性期病棟ほど重症患者さんの急変対応に追われる場面は多くない一方で、健診中に体調を崩す人がいれば、もちろん適切な対応が求められる。
さらに、受診者さんへの丁寧な言葉遣いや接遇も大切だった。
先日も採血の際、緊張している受診者さんへの声かけが十分ではなく、先輩から、
「採血が苦手な方もいるから、最初にもう少し不安を聞いてみてもいいかもね」
とアドバイスを受けたばかりだった。
その日は、自分では丁寧に対応したつもりだっただけに少し落ち込んだ。
健診センターには健診センターなりの、病棟とは違う緊張感と難しさがある。
けれど、その失敗や悩みは、病棟時代に感じていた「仕事が勤務時間の外まで際限なく入り込んでくる苦しさ」とは違っていた。
「大変な部分はありますけど、今の職場は、仕事と自分の時間の境目が前よりずっとはっきりしているんです」
私は少し笑った。
「忙しくて残業する日がまったくないわけじゃないし、研修だってあります。でも、休みの日までいつ連絡が来るか分からないとか、家でパワポを直さなきゃいけないとか、そういう生活ではなくなりました」
そして、ゆっくり息を吐いた。
「自分の時間が、ちゃんと自分のものとして戻ってきた感じがするんです」
あんこ先輩は、私の話を遮ることなく、
「うん、うん」
と静かに頷いて聞いてくれていた。
「転職して大正解だったね」と簡単に結論を出すわけでもなく、私の今の等身大の言葉を、そのまま温かく受け止めてくれている。
病棟での4年間は、決して無駄ではなかった
「転職活動中、キャリアのことで本当に悩みました。でもね、先輩。健診センターに来てみたら、病棟での4年間の経験が、ちゃんとここでも役に立っているって分かったんです」
私はカップをテーブルに置いた。
「既往歴を見て注意することを考えたり、受診者さんの顔色や様子がいつもと違うんじゃないかって気づいたり。採血一つでも、病棟でいろんな患者さんに接してきた経験が生きています」
そして少し笑った。
「人生が劇的に変わったわけじゃないし、今でも自分の手際に落ち込む日はあります。でも、あの頃に比べたら、すごく呼吸がしやすくなりました。病棟を離れたから4年間が消えたんじゃなくて、その4年間を持ったまま、別の場所に来たんだって思えるようになったんです」
話し終えた私に、あんこ先輩はふわりと微笑み、静かにカップを置いた。
「そっか。詩織ちゃんが自分でたくさん考えて、その道を選び取ったんだもんね」
その短い言葉に、胸の奥に残っていた最後のトゲが、すっと溶けていくのを感じた。
大手町の高層ビルの間を、柔らかな春風が吹き抜けていく。
鮮やかな新緑がさらさらと揺れ、午後の日差しがテーブルの上に淡い木漏れ日を落としていた。
病棟にいた頃、休日まで仕事に追われながら、
「私の時間は、どこにあるんだろう」
と何度も思った。
今、その答えが少しだけ分かった気がする。
自分の時間は、誰かから与えてもらうものではない。
自分が大切にしたいものを考え、自分で選び取っていくものなのだ。
春の風を頬に感じながら、私は久しぶりに、次の休日を楽しみにしていた。
💙あんこからのあいさつ💙
今回のエピソード、読んでみてどうでしたか?
今の職場で迷いながらも、自分が大切にしたい働き方を真剣に考えてみる。その結果として、残る選択をしても新しい道を選んでも、あなたが自分で悩んで歩き出した道なら、きっと大丈夫。あなたの張り詰めた心が、少しでも軽くなりますよう。
あなたの未来を守る「お守り」です。

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