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  • 休日まで委員会の持ち帰り残業。看護師の「仕事と私生活の境界線」を考えた日

    休日まで委員会の持ち帰り残業。看護師の「仕事と私生活の境界線」を考えた日

    看護師あんこ日記 episode20

    2週間ぶりの休日なのに、待っていたのは病院のExcel

    ピピッ、ピピッ、ピピッ。

    土曜日の午前10時。アラームの音で目が覚めた私は、ベッドの中で思い切り背伸びをした。

    今日は待ちに待った、2週間ぶりの完全な公休!

    お天気は快晴。絶好のお出かけ日和だ。

    「よし! 今日はちょっと遠出して、あのSNSで話題のベーカリーカフェでおいしいクロワッサンを食べるんだ!」

    そう意気込んでベッドから飛び起き、お気に入りのワンピースに着替えようとした、その時。

    机の上にポツンと置かれた、無機質な黒いバッグが私の視界に入った。

    そのバッグの中身を思い出した瞬間、私の頭の中に冷たいバケツの水がバシャーーーッと浴びせられたような衝撃が走る。

    「……あ。忘れてた。いや、忘れたフリをしてた……」

    おそるおそるバッグのチャックを開けると、そこから現れたのは、病院から支給されているノートパソコン。

    画面を開けば、表示されているのはオシャレなカフェのメニューなんかじゃない。

    無骨なExcelの画面と、

    『令和8年度 医療安全委員会・ヒヤリハット集計表』

    という、あまりにも現実的で可愛げのない文字だった。

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    看護師の委員会活動。「残業するな、でも資料は出して」の矛盾

    看護師の仕事は、ベッドサイドでのケアだけではない。

    病棟によっては「委員会活動」や「係活動」といった、病棟運営に関わる役割も割り振られる。

    8年目の私が今年仰せつかったのは、数ある委員会の中でもトップクラスにヘビーな「医療安全委員会」のコアメンバーだ。

    毎月、病棟で起きたインシデント(ヒヤリハット)の報告書を回収。

    原因を分析。

    対策をまとめた資料を作成。

    そして、全体の会議で発表する。

    これがね、本当に笑えるくらい膨大な作業量なのだ。

    もちろん、日勤の勤務時間中にパソコンに向かってカタカタと資料を作る余裕なんて、1秒たりとも存在しない。

    じゃあ、業務後に残ってやればいいかというと、今の病院のスタンスはこうだ。

    「残業は原則禁止だから、定時になったら早く帰ってね」

    「あ、でも来週の委員会資料、ちゃんとデータまとめておいてね」

    残業はするな。

    でも資料は期限までに出せ。

    この、あまりにも矛盾に満ちたダブルスタンダード。

    一言で言って、完全に「無理ゲー」である。

    先輩たちも、業務後に退勤処理をしてから作業を続けたり、ノートPCを家に持ち帰ったりしていた。

    私もいつの間にか、その働き方を「しょうがない」と受け入れるようになっていた。

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    看護師の休日が「持ち帰り残業」で消えていく

    せっかくの休日。

    オシャレなカフェに行く気力は一瞬で消え去り、私は部屋着のスウェットのまま、自宅のデスクでパソコンに向かった。

    お気に入りのマグカップにコーヒーを注ぎ、BGMに大好きな音楽を流してみる。

    けれど、画面の中で踊っているのは、

    「内服薬の確認不足」

    「点滴の速度間違い」

    といった、まったく心が休まらない言葉のオンパレードだ。

    「私、なんでプライベートの貴重な時間を使って、自分の家の電気代とWi-Fiまで使って、病院の事務作業やってるんだろう……」

    カタカタとキーボードを叩きながら、胸の奥からドス黒い理不尽さがジワジワと湧き上がってくる。

    一般企業で働く友達にこの話をすると、

    「え!? 休日に会社の仕事してるの?」

    と、本気で驚かれる。

    でも、私の職場では、

    「病院のために貢献して当たり前」

    「係の仕事なんだから自分で終わらせるもの」

    という空気の中で、いつの間にか休日の作業まで当たり前になっていた。

    気がつけば、時計の針は午後3時を回っていた。

    一番リフレッシュできるはずだった土曜日の貴重な半日が、仕事によって跡形もなく消えていた。

    /

    仕事とプライベートの境界線がなくなる働き方に限界

    肩と首の強烈な凝りを感じながら、パソコンをパタンと閉じる。

    窓の外を見ると、あんなに綺麗に晴れていた青空が、いつの間にか夕焼けのオレンジ色に染まり始めていた。

    「私の人生の時間は、病院のものじゃないのに」

    30歳。

    体力的にも精神的にも、仕事とプライベートの境界線がこれ以上ぼやけていく働き方は、もう限界だ。

    20代の頃は、

    「これも勉強のうち」

    と自分を納得させていた。

    でも今は、自分の「休日の価値」を、そんなに安く見積もりたくない。

    仕事の時間は集中して働く。

    でも、一歩仕事を離れたら、自分のために時間を使う。

    そんな当たり前の境界線を、これからはちゃんと守りたい。

    /

    「持ち帰り残業なし・残業少なめ」を次の職場選びの条件に

    「もう、持ち帰り残業がある生活とは決別しよう」

    私はノートPCを黒いバッグに押し込み、クローゼットの奥へとしまった。

    そして、自分のスマホを開く。

    転職サイトの条件指定欄に並んでいる文字を、一つずつ確認した。

    「土日祝休み」

    「残業少なめ」

    「日勤のみ」

    今までなら、給与や仕事内容ばかりを見ていたかもしれない。

    でも、これからは違う。

    仕事を家に持ち帰らなくていいこと。

    休日を、本当に休日として過ごせること。

    それも、私にとって大切な転職条件なのだ。

    私の大切な30代の休日は、病院の資料を作るためじゃない。

    好きな場所へ出かけたり。

    友達と会ったり。

    何もしないでゴロゴロしたり。

    そんな、自分の人生を回復させるために使いたい。

    やり残した自分のケアのために、私は少し高めの入浴剤を買いに、散歩がてらドラッグストアへ向かうことにした。

    (episode21へ続く)

  • 夜勤で肌荒れ・クマが消えない。スキンケアより「夜勤なし」を選びたくなった

    夜勤で肌荒れ・クマが消えない。スキンケアより「夜勤なし」を選びたくなった

    看護師あんこ日記 episode19

    夜勤明けのクマと肌荒れ。30歳になって疲れが顔に残るようになった

    「……あぁ、やっぱりここに居座ってる」

    夜勤明けの午前10時。

    お風呂上がりに洗面台の鏡を覗き込んだ私は、自分の顔を見て思わず深い、深いため息をついた。

    目の下にクッキリと刻まれた、頑固な青黒い「クマ」。

    どんなにたっぷり睡眠をとっても、コンシーラーを親の仇のように叩き込んでも、絶対に消えてくれない私の“夜勤の勲章”が、今日も元気に自己主張している。

    さらに、顎のあたりには、昨日まではなかった不穏な赤ニキビがポツリ。

    「デパコスであんなに高い美容液買ったのに! 先週、ご褒美に1万5千円のエステにも行ったのに……!」

    鏡に向かって抗議してみるけれど、もちろん鏡の中の疲れ果てたアラサーナースは、カサカサの唇で力なく微笑み返してくるだけだ。

    8年目の夜勤明け。

    20代の頃なら、夜勤明けにそのまま友達と渋谷でランチをして、カラオケに行って、ちょっと寝れば翌朝にはツヤツヤの肌が復活していた。

    しかし、30歳を迎えた今の私の細胞たちは、そんな無茶な働き方に完全なるストライキを起こしていた。

    /

    夜勤で稼いだお金が、美容代に消えていく悪循環

    現在の私の夜勤回数は、2交替で月4回。

    夕方から翌朝まで、緊張感で張り詰めた病棟を走り回り、仮眠時間という名の「いつ急変に呼ばれるか分からない2時間のうたた寝」を挟んで、また働く。

    朝に帰宅して、遮光カーテンをこれでもかと閉め切った暗い部屋で眠る。

    でも、お昼過ぎに「パチッ」と目が覚めてしまい、そこから夜までダラダラと過ごす。

    結果、夜の寝つきが悪くなり、次の日勤の朝は寝不足でフラフラ。

    このボロボロになった肌と体を修復するために、私の給与明細から、毎月かなりの額の「美容代」が消えていく。

    デパコスのカウンターで美容部員さんに、

    「乾燥されてますね、しっかり水分を入れましょう!」

    と言われ、おすすめされるがままに1本1万円超えの導入液を購入する。

    休みの日にわざわざ予約をとって、高級なフェイシャルエステに通う。

    でも、ある日、エステのベッドの上で施術を受けながら、私は冷静に頭の中で計算してしまった。

    「待って。私、夜勤で稼いだお金を、夜勤でボロボロになった肌の修復のために使ってない……?」

    夜勤をする。

    肌と体がボロボロになる。

    美容に課金してリセットを試みる。

    そして、また夜勤をする。

    これ、終わりのない「悪魔のサイクル」ではないか。

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    高いスキンケアでも消せない「夜勤疲れ」

    どれだけ高級なスキンケアに課金したって、それはあくまで表面的な対策なのかもしれない。

    エステの帰り道、ドラッグストアの鏡に映った自分の顔をふと見たとき、なんだか猛烈に虚しさが込み上げてきた。

    高いファンデーションでクマを隠し、リップで血色感を足している。

    でも、顔全体からにじみ出る「どんよりとした疲労感」までは、どうにも隠しきれない。

    「私が本当に欲しいのは、デパコスの美容液じゃない」

    新宿の交差点で信号待ちをしながら、私は眩しい太陽の光を見上げた。

    「朝、太陽の光で気持ちよく目が覚めて、お昼に美味しいご飯を食べて、夜は自分のベッドで日付が変わる前に眠る」

    「そんな規則正しい生活がしたいだけなんだ」

    看護師という仕事は好きだし、誇りもある。

    でも、自分の健康や生活リズムまで犠牲にして、この急性期病棟にしがみつき続ける必要は、もうないんじゃないだろうか。

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    「夜勤なし・日勤のみ」の看護師求人が気になり始めた

    30代の10年間を、また同じように「夜勤疲れ」と「肌荒れ」に悩みながら過ごすなんて、絶対に嫌だ。

    これからは、外見を取り繕うためのスキンケアだけじゃなく、自分の心と体を内側から労わってあげられる「働き方」を選びたい。

    家に帰り着き、私はロッカーの奥に眠っていた「日勤のみ・夜勤なし」の転職パンフレットを引っ張り出してきた。

    クリニック。

    健診センター。

    訪問看護。

    企業の健康管理室。

    夜勤のない働き方に変われば、今より給与が下がる可能性はある。

    でも、毎晩自分のベッドで眠れて、生活リズムを整えられるなら、それも大きな価値なんじゃないだろうか。

    高いエステ代や美容液代まで含めて考えたら、意外と悪くない選択なのかもしれない。

    /

    30代は、夜勤より「規則正しい生活」を大切にしたい

    「よし、30代は『内側から健康的な美人』を目指すぞ!」

    洗面台に戻り、お気に入りのプチプラの化粧水を、手のひらで優しく顔全体にパッティングする。

    高級な魔法の薬だけに頼る生活は、もうおしまい。

    朝起きて。

    昼に活動して。

    夜は自分のベッドで眠る。

    そんな当たり前の生活を大切にできる働き方を、そろそろ本気で探してもいい。

    私はスマホを手に取り、検索窓へゆっくり文字を打ち込んだ。

    「看護師 夜勤なし」

    「看護師 日勤のみ」

    「看護師 健診センター」

    30歳。

    今度はスキンケアではなく、働き方そのものから、自分を大切にしてみよう。

    (episode20へ続く)

  • シフトが出るのが遅くて予定が立てられない。推し活も旅行も諦める働き方に限界

    シフトが出るのが遅くて予定が立てられない。推し活も旅行も諦める働き方に限界

    看護師あんこ日記 episode18

    来月のシフトがまだ出ない。推し活の予定すら決められない

    「……え、待って。一般発売、明日の10時からじゃん!」

    木曜日の夜勤明け、ボロボロの体でベッドに滑り込み、何気なくスマホを眺めていた私は、思わず飛び起きた。

    画面に映っているのは、私が今人生のすべてを捧げて応援している、大好きな推しグループの全国ツアーのスケジュール。

    今回のツアー、なんと私の地元からほど近いアリーナでの公演があるのだ。

    チケットを手に入れるための最初の関門が、明日の一般先着発売。

    オタクとしての血が騒ぐ。今すぐスケジュールを確認しなければ。

    「えーっと、公演日は、来月の15日の日曜日、ね……」

    カレンダーアプリから、私のシフト管理アプリへと画面を切り替える。

    そして、そこにある現実を見て、私は盛大にずっこけそうになった。

    画面に表示されている来月のスケジュール欄は、見事なまでに真っ白。

    そう。

    まだ来月のシフトが出ていないのである。

    時計の針は、すでに今月の27日を指している。

    今月が終わるまであと3日しかないというのに、来月の自分が「何日に働いて、何日に休みなのか」が、1ミリも分からないのだ。

    「師長ーーー! 来月のシフト、まだですかーーー!?」

    私は誰もいないワンルームの部屋で、天井に向かって虚しく叫んだ。

    /

    看護師のシフトが出るのは月末ギリギリ。予定が立てられないストレス

    私の病棟では、翌月のシフト表が出るのは、前月のかなり遅い時期だ。

    28日ならまだ早いほう。

    遅いときには30日の夜に、

    「はい、これ来月のシフトね」

    とナースステーションの壁に貼り出されることもある。

    これが何を意味するか。

    来月のプライベートの予定を、直前まで確定できない。

    ということだ。

    一般企業で働く友達から、

    「来月の土曜日、みんなで温泉旅行行かない? 早めに宿予約しちゃおうよ!」

    と誘われても、私の返事はいつも決まっている。

    「ごめん! シフトが出ないと行けるか分からないから、ちょっと待って!」

    そう言って待たせているうちに、人気の宿はどんどん埋まっていく。

    友達側の計画も止まってしまう。

    申し訳なさと情熱の行き場がなくて、枕を何回叩いたか分からない。

    /

    看護師は休み希望や有休を出しにくい?趣味の予定にも罪悪感

    「有休を使えばいいじゃない」

    と思うかもしれない。

    確かに、どうしても外せない予定のために「休み希望」を出す制度はある。

    でも、うちの病棟のルールでは、1カ月に出せる休み希望は「3カ所まで」。

    しかも、休み希望を出すときには、師長からこんな会話になることもある。

    「あんこさん、来月の15日、お休み希望出してるけど、何かあるの?」

    「あ、えっと、どうしても行きたいイベントがありまして……」

    「イベント? 冠婚葬祭とかじゃないなら、ちょっと他のスタッフとの兼ね合いで日勤になっちゃうかも。今月人手不足だから、協力してね」

    協力。

    これまた断りにくい魔法の言葉である。

    結局、趣味や旅行のために休みたいだけなのに、

    「こんな理由で休んでいいのかな」

    と、なぜかこちらが罪悪感を抱くことになる。

    自分の休みなのに、どうしてこんなにコソコソと言い訳を考えなきゃいけないんだろう。

    /

    シフト制の看護師は、旅行もライブも「出たとこ勝負」

    結局、明日のチケット発売日を迎えても、自分がその日に休めるかどうかは「賭け」に出るしかない。

    もしチケットが取れても、あとから出たシフト表に、

    「日勤」

    あるいは、

    「夜勤入り」

    の文字が刻まれていたら、その時点で私の推し活は強制終了。

    泣く泣く公式トレードに出して、泣きながら仕事に行く羽目になる。

    こんな「出たとこ勝負」の生き方に、私の心は少しずつ、だけど確実に窮屈さを感じ始めていた。

    不規則なシフト勤務のおかげで、平日の空いている時間に買い物に行けたり、銀行の手続きがスムーズにできたりするメリットはある。

    それは分かっている。

    でも、自分の人生の時間を、自分の大好きな趣味や、大切な人たちとの予定のために「自由にコントロールできない」というのは、思った以上に大きなストレスだ。

    仕事のために生きているわけじゃない。

    私は、自分の大好きな趣味や旅行を楽しんで、人生を豊かにするために働いているはずなのに。

    /

    土日休み・予定が立てやすい働き方を、本気で探したくなった

    「カレンダー通りに休めて、数カ月先の旅行の予約をワクワクしながらできる世界に行きたいな」

    ベッドにひっくり返りながら、スマホのカレンダーを眺める。

    土日祝日が休みで。

    数カ月先の予定を立てやすくて。

    有休も、必要なときに申請できる。

    そんな働き方なら、今よりずっと自分の人生を大切にできる気がする。

    30歳。

    仕事のやりがいも大切だけど、プライベートのワクワクを我慢し続ける人生なんて、絶対につまらない。

    「私の人生のカレンダーは、私が主導権を握るんだから」

    私は起き上がり、来月の真っ白なカレンダーの「15日」のマスを、推しのイメージカラーである青色のペンで、これでもかと力強く塗りつぶした。

    シフトがどうなろうと、明日の10時は全力で一般発売のボタンを連打してやる。

    そして、私の予定を一番に尊重できる未来のために、

    「看護師 土日休み」

    「看護師 日勤のみ」

    「看護師 年間休日120日以上」

    そんな条件でも、求人を本気で探してみよう。

    (episode19へ続く)

  • 看護師にもこんな働き方がある?リモートワークを見て広がった転職の選択肢

    看護師にもこんな働き方がある?リモートワークを見て広がった転職の選択肢

    看護師あんこ日記 episode17

    一般企業のリモートワークを見て、働き方の違いに驚いた

    「あ、ごめん! ちょっと今、会社のチャットに1本返信しちゃうね!」

    金曜日の午後1時。

    有給をとって平日の昼間からちょっとオシャレなカフェに繰り出した私は、目の前に座る大学時代の友人・カナの言葉に、思わずケーキを口に運ぶフォークを止めた。

    カナは大学卒業後、都内のIT企業に就職した、いわゆる「一般企業で働くOL」だ。

    彼女は手際よくスマホを操作し、フリック入力でササッとメッセージを送ると、

    「お待たせ! よし、これで今日の分のタスクはだいたい終わり!」

    と、カフェラテを美味しそうにすすった。

    「え、待ってカナ。今日って金曜日だよね? 仕事休みだったっけ?」

    「ううん、普通に勤務日だよ! でも、うちは完全リモートワークだしフレックス制だからさ。午前中に家で集中して仕事終わらせて、午後はコアタイム外してカフェで作業しようと思って、PC持ってきちゃった」

    リモートワーク。

    フレックス。

    コアタイム。

    私の頭の中のミニあんこが、

    「ちょっと待って、そのオシャレな呪文は何ですかーーー!?」

    とパニックを起こして大騒ぎを始めた。

    /

    病棟勤務とは別世界。フレックス・在宅勤務という働き方

    私の働く一般病院の病棟といえば、令和のこの時代にあっても超がつくほどのアナログ&拘束社会だ。

    出勤したらまずはタイムカードを押し、白衣に着替え、スマホなどの私物はロッカーへ。

    勤務時間中に私用の連絡を確認することは難しいし、喉が渇いても、タイミングを見ながら水分補給するのが精いっぱい。

    もちろん、病棟を離れれば、

    「あんこさん、どこ行った?」

    と探される。

    そんな「100%現場勤務」の環境で8年間生きてきた私にとって、カナの口から語られる働き方は、もはや異世界転生モノの小説を読んでいるくらい現実味がなかった。

    「え、じゃあ、平日の昼間にこうやってカフェで仕事しても怒られないの?」

    「全然! 成果物さえちゃんと出して、連絡がつながれば場所はどこでも自由だよ。夏はクーラーの効いた部屋でパジャマのまま仕事できるし、通勤ラッシュの満員電車に乗らなくていいのが本当に最高なんだよね」

    パジャマのまま、仕事。

    通勤ラッシュ、なし。

    窓際の席から差し込む木漏れ日を浴びながら、ノートPCを開いて働くカナの姿は、なんだかものすごくキラキラして見えた。

    一方の私は、昨日の夜勤明けの疲れが抜けきらず、ファンデーションのノリの悪さを必死に隠してきたアラサーナースである。

    この圧倒的な「世界線の違い」に、脳内がキリキリと音を立ててバグりそうだった。

    /

    「看護師だから不規則勤務は当たり前」という思い込みに気づいた

    「看護師の仕事って、本当にすごいし尊敬するよ」

    と、カナはまっすぐな目で言ってくれた。

    「でも、あんこ、いっつも夜勤でボロボロだし、髪振り乱して働いてるじゃん? もう少し自分の体を大切にできる働き方にシフトしてもいいんじゃない?」

    カナの優しい言葉が、私の胸の奥にストレートに突き刺さる。

    新人の頃から、私は、

    「看護師なんだから、現場に縛られて当然」

    「カレンダー通りに休めないのは当たり前」

    と思い込んで生きてきた。

    でも、それはただ、私が「病院」という箱の中の常識しか知らなかったからなのかもしれない。

    一歩外に目を向ければ、もっと柔軟な勤務時間や、個人のライフスタイルを尊重した働き方を選んでいる人たちがいる。

    「私、勝手に『これしか道がない』って、自分の世界を狭めてたのかな……」

    カフェの窓の外を眺めながら、自分の中にあった古い価値観が、パラパラと音を立てて崩れていくのを感じていた。

    /

    看護師でも日勤のみ・土日祝休みの仕事は探せる

    もちろん、患者さんと直接向き合う臨床看護の多くは、現場にいることが前提だ。

    だから、カナとまったく同じような働き方ができるわけではない。

    でも、

    「今の病棟勤務だけが、看護師として働く唯一の道ではない」

    と気づいただけで、私の心の風通しは一気に良くなった。

    病院の病棟以外にも、日勤中心の仕事や、土日祝休みを狙いやすい働き方はある。

    産業看護師。

    治験コーディネーター(CRC)。

    クリニック。

    訪問看護。

    ほかにも、看護師として身につけてきた経験を活かせる場所は、探せばまだまだあるはずだ。

    「よし、私もちょっと視野を広げてみよう!」

    /

    「産業看護師」「CRC」「日勤のみ」で求人検索を始めた

    カナと別れた帰り道。

    私は電車のシートに腰掛けると、すぐにスマホを開いた。

    これまでは、

    「看護師 転職」

    としか入れていなかった検索窓。

    そこへ今度は、

    「看護師 産業看護師」

    「看護師 治験 CRC」

    「看護師 日勤のみ 土日祝休み」

    と、一つずつ入力してみる。

    画面には、これまで知らなかった働き方や求人情報が次々と並んだ。

    胸が、トクンと小さく高鳴る。

    30歳。

    世間の「当たり前」に縛られるのは、もうおしまい。

    病棟勤務を続けるのか。

    別の医療現場へ行くのか。

    企業で看護師経験を活かすのか。

    今まで見えていなかった選択肢まで含めて、自分で選んでいい。

    カナのように、平日のカフェタイムを笑顔で楽しめるような、私にとっての「最高の働き方」を、これから全力で見つけにいこう。

    そう心に誓いながら、私は電車の窓に映る、少し前を向いた自分の顔を見つめていた。

    (episode18へ続く)

  • 尊敬していた先輩が燃え尽きて退職。「このままでは私も危ない」と思った日

    尊敬していた先輩が燃え尽きて退職。「このままでは私も危ない」と思った日

    看護師あんこ日記 episode16

    尊敬していた10年目看護師から突然の退職報告

    「あんこちゃん、私、今月で病院を辞めることになったの」

    夜勤明けの静かな仮眠室で、10年目の先輩ナース・マキさんにそう告げられたとき、私は手に持っていた冷たい缶コーヒーを危うく床に落としそうになった。

    「え……マキさんが、辞める……? 嘘ですよね?」

    冗談であってほしいとマキさんの顔を覗き込んだけれど、いつもなら「冗談よ〜!」とケラケラ笑うはずの彼女は、どこか遠くを見つめたまま、小さく寂しそうな微笑みを浮かべているだけだった。

    マキさんは、この5階病棟の「良心」そのもののような人だった。

    仕事の正確さとスピードは誰もが頼りにするレベルだし、どんなに激務で病棟がピリピリしていても、患者さんや私たち後輩への優しい笑顔を絶やさない。

    ドクターからの信頼も厚く、まさに私が、

    「将来はマキさんみたいになりたい!」

    と心の底から憧れていた、理想の看護師だった。

    そんなマキさんが、ある日突然、糸が切れたように、

    「心が折れました」

    と、師長に退職届を出したのだ。

    /

    「マキさんなら大丈夫」が積み重なった、看護師の燃え尽き

    マキさんが辞める理由は、誰かとの大きな人間関係のトラブルでもなければ、目に見える重大なミスでもなかった。

    いわゆる、**燃え尽き症候群(バーンアウト)**だった。

    「私ね、もうこれ以上、誰かの命を背負いながら、このスピード感で走り続ける体力が残ってないみたい」

    更衣室で2人きりになったとき、マキさんは白衣のボタンを外しながら、ぽつりと本音を漏らしてくれた。

    「みんなから『マキさんなら大丈夫』って言われるたびにね、あぁ、今日も完璧な看護師でいなきゃって、自分で自分を追い詰めちゃってたの」

    「家に帰るとね、泥のように疲れて、涙が止まらなくなっちゃう日があって……。あ、私、もう限界なんだなって気づいちゃったんだよね」

    いつも前を走って、私たちを引っ張ってくれていたマキさんの口から出た「限界」という言葉。

    その重みに、私は胸が締め付けられるようだった。

    マキさんは、誰よりも責任感が強かった。

    人手不足のシフトを穴埋めし、後輩の相談に夜遅くまで付き合い、終わらない委員会の仕事を休日に家でこなしていた。

    みんなが彼女の優しさと有能さに頼り続けた結果、あの底なしに見えたエネルギーが、とうとう空っぽになってしまったのだ。

    /

    急性期病棟で燃え尽きる先輩を見て、自分の未来が怖くなった

    マキさんが最後に、

    「お疲れ様でした!」

    と花束を抱えて去っていった日の夜、私は自分のアパートのベッドで、果てしない絶望感に襲われていた。

    「あのマキさんですら、潰れて辞めていく環境なんだ……」

    頭の中で、その事実が何度も何度も繰り返される。

    マキさんは、私よりも遥かに知識があって、メンタルも強くて、看護の仕事に熱意を持っていた。

    そんな素敵なプロフェッショナルでさえ、心が限界に達して辞めることになった。

    それが、この急性期病棟で起きている現実なのだ。

    じゃあ、すぐに胃をキリキリさせている私は、この先どうなるんだろう。

    このままこの病棟にしがみつき続けて、4年後、10年後を迎えたとき。

    私はマキさん以上にボロボロになって、燃え尽きているんじゃないだろうか。

    目指すべき北極星を見失ってしまったかのように、私の未来の視界は、一瞬で真っ暗な霧に包まれてしまった。

    「私、このままここにいたら、いつか本当に心が死んじゃうかもしれない」

    ハサミでパツンと切られたみたいに、私の心の中で、この病院への未練のようなものが完全に消えた瞬間だった。

    /

    「無理しすぎちゃダメ」先輩が最後に残してくれた言葉

    でも、マキさんが去り際に、私のロッカーのポケットにそっと忍ばせてくれた小さなメッセージカードには、彼女の温かい手書きの文字で、こう書かれていた。

    『あんこちゃん、今までたくさん助けてくれてありがとう。あんこちゃんは優しくて本当に良い看護師だからこそ、マキさんみたいに無理しすぎちゃダメだよ。自分の人生を、一番大切にしてね』

    カードを抱きしめながら、私は夜の部屋で静かに涙を流した。

    マキさんは、自分の経験を通して、私に、

    「これ以上無理を続けないで」

    という大切なメッセージを残してくれたのかもしれない。

    あんなに大好きで尊敬していた先輩が辞めてしまったことは、ものすごく寂しかった。

    でも、その言葉の中に私は、

    「自分の人生を自分で守る」

    という、小さな、だけど消えない覚悟の光を見つけることができた。

    /

    燃え尽きる前に、自分が笑顔で続けられる職場を探したい

    30歳。

    完璧な看護師マシーンになる必要なんてない。

    誰かに頼られるために、自分をすり減らし続ける必要もない。

    マキさんが教えてくれた通り、私は私の心と身体をちゃんと守りながら、笑顔で続けられる「私らしい看護」の場所を探したい。

    患者さんと向き合えて。

    無理な働き方をしなくてよくて。

    自分の時間も大切にできる。

    そんな職場を、今度は本気で探してみよう。

    ロッカーから持ち帰ったマキさんのカードを、私は手帳の最初の一ページに、お守りのようにそっと挟み込んだ。

    (episode17へ続く)

  • 30歳の誕生日に決めた。「このままの働き方はもう続けない」

    30歳の誕生日に決めた。「このままの働き方はもう続けない」

    看護師あんこ日記 episode15

    30歳の誕生日。準夜勤明けに一人で迎えた節目

    「……はぁ。ついに、なっちゃったなぁ」

    深夜23時55分。

    準夜勤を終えて命からがらアパートに帰り着き、メイクも落とさず床にへたり込んだ私は、液晶画面がバキバキに割れたスマホを見つめて呟いた。

    あと5分。

    あと5分で、私の20代が静かに幕を閉じる。

    テーブルの上には、コンビニに駆け込んでなんとか調達した、プラスチック容器入りの「プレミアムロールケーキ」。

    一応、ささやかなお祝いのつもりで、仏壇用の引き出しから発掘した1本の細いローソクを真ん中にぶすりと突き刺してある。

    マッチで火を灯すと、狭いワンルームに小さなオレンジ色の炎が揺れた。

    ピピッ。

    日付が変わる。

    【5月30日(土)00:00】

    「……おめでとう、私。ようこそ、30代の世界へ!」

    パチパチパチ、と虚しく1人で拍手をして、ふぅーっと息を吹きかける。

    ローソクの煙が消えていくのと同時に、私の頭の中で、これまでの20代の記憶が走馬灯のように駆け巡った。

    /

    20代の10年間を、看護師としてがむしゃらに走り続けた

    私の20代は、一言で表すなら「白衣一色」だった。

    22歳で国家試験に合格し、大きな期待と、それ以上の恐怖を胸に一般病院へ就職した。

    最初の数年間は、先輩ナースの鋭い視線に怯え、ドクターの早口な指示を聞き取るのに必死で、毎日泣きながら参考書を開いていた。

    アラームの音に飛び起き、患者さんの命の重さに押し潰されそうになり、激務のあまり1カ月で体重が4キロ落ちたこともあった。

    中堅になってからは、後輩のミスをカバーし、病棟の理不尽なシステムに耐え、コロナ禍という歴史的な荒波まで最前線で泳ぎきった。

    友達と遊びに行った思い出よりも、夜勤明けのボロボロの顔で食べた牛丼の味や、ナースステーションでこっそり流した涙の数のほうが多いかもしれない。

    でも、そのことに後悔は1ミリもない。

    必死だったし、がむしゃらだったけれど、あの10年間があったからこそ、今の私は1人で重症患者さんの対応ができるようになったし、周囲から頼りにされる強さを身につけることができた。

    20代の私、本当によく頑張った。

    それは心の底から誇りに思っている。

    だけど、ロールケーキをスプーンですくいながら、私の視線はカレンダーの「30」という数字に釘付けになっていた。

    「じゃあ……これからの30代の10年間も、私、まったく同じ生き方をするの?」

    /

    夜勤・残業・クレーム対応。このまま40歳になるのは嫌だ

    その問いが頭に浮かんだ瞬間、背筋がヒヤリとした。

    もし私が、このまま「急性期病棟のやりがい」という名のレールに乗り続けたら。

    これからの30代も、夜勤で肌を荒らし、睡眠リズムをガタガタに崩しながら、夜中にアラートの音で飛び起きる生活が続く。

    これからの30代も、理不尽に怒鳴るドクターの顔色をうかがい、気難しい患者さんや家族のクレーム対応の最前線に立たされ、サービス残業の「自己研鑽」に休日を潰される。

    ハッと気づけば、あっという間に40歳になっているだろう。

    「……それは、絶対に嫌だ」

    喉の奥から、本音の言葉がポロリと溢れた。

    20代の頃は、無限の体力と「成長したい」という特効薬があったから、どんな過酷な環境でも笑って乗り越えられた。

    でも、30代は違う。

    身体の変化もリアルに感じるし、何より、自分の「人生そのものの時間」がどれほど貴重なものなのか、もう痛いほど分かってしまっている。

    仕事に命を捧げる生き方は、20代で十分にやりきった。

    30代の私は、もっと人間らしく生きたい。

    朝、太陽の光で目覚めて、夜は自分のベッドでちゃんと眠りたい。

    土曜日には友達とおしゃれなランチをして、平日の夜には大好きなヨガのレッスンに通いたい。

    看護師としてのキャリアも大切にしたい。

    でも、それと同じくらい、一人の人間としての私の幸せも、欲張って生きていきたいのだ。

    /

    30代の看護師として「自分を大切にできる働き方」を選ぶ

    スプーンを置き、窓の外の静まり返った街並みを見つめる。

    30歳という年齢は、ただの数字だ。

    でも私にとっては、これまでの「流されるままに頑張る看護師人生」と、これからの「自分で選んで幸せになる人生」の間に引く、決定的な境界線のように思えた。

    「よし、決めた」

    私はスマホを手に取り、メモアプリを開いた。

    そして一番上の行に、こうタイピングした。

    『30代、私はもっと自分を大切にできる場所で働く!』

    文字にしてみたら、胸の奥のモヤモヤが一気に晴れて、なんだかすごくワクワクしてきた。

    30歳。

    看護師としての経験があって、自分が何を大切にしたいのかも少しずつ分かってきた。

    これからの人生を、自分の意思で選び直すには、むしろちょうどいい年齢なのかもしれない。

    /

    30歳からでも遅くない。看護師としての人生を選び直す

    カサカサになった手のひらをぎゅっと握りしめる。

    私の新しい10年間のプロローグは、今この部屋から始まるんだ。

    これまで身につけた看護師としての経験を捨てる必要なんてない。

    ただ、その経験をどこで、どんな働き方で使うのかは、自分で決めていい。

    夜勤を減らしたい。

    自分の時間を大切にしたい。

    患者さんともっと向き合いたい。

    正当に評価されたい。

    そんな希望を、全部わがままだと諦める必要もない。

    残ったロールケーキを一気に口に放り込み、私は「最高の30代」をプロデュースするための第一歩として、まずはメイクを落としてフカフカのお布団に潜り込むことにした。

    明日からは、これまでとは少し違う目で、自分の未来を探してみよう。

    (episode16へ続く)

  • コロナ禍を経験して変わった価値観。「仕事より自分の人生を大切にしたい」

    コロナ禍を経験して変わった価値観。「仕事より自分の人生を大切にしたい」

    看護師あんこ日記 episode14

    N95マスクを見て蘇った、コロナ禍の看護師生活

    クローゼットの奥を整理していたら、当時の名残である、未使用のN95マスクと、これでもかと頑丈に作られたフェイスシールドの予備がいくつか転がり出てきた。

    それを見つめた瞬間、私の脳裏に、あの息が詰まるような数年間の記憶がフラッシュバックする。

    「本当に、よく生き残ったよね、私たち……」

    思い返せば、あの時期の急性期病棟は、まさに文字どおりの「戦場」だった。

    未知のウイルスへの恐怖。

    ガサガサと音を立てる防護服(PPE)に身を包み、ゴーグルが自分の息で曇る中、汗だくになりながら患者さんのケアにあたった日々。

    「もし自分が感染して、病棟でクラスターを起こしたらどうしよう」

    「もし私がウイルスを家に持ち帰って、大切な家族にうつしてしまったら……」

    毎朝、出勤前に体温計の数字を見るだけで心臓がバクバクと脈打ち、張り詰めた緊張感で生きた心地がしなかった。

    思い出すだけでも、当時の自分のメンタルの強さにノーベル平和賞をあげたいくらいだ。

    /

    「医療従事者ありがとう」の裏で感じた偏見と孤独

    当時、世間からは「医療従事者の皆さん、ありがとう!」と温かい拍手や応援のメッセージをたくさんいただいた。

    それは本当に嬉しかったし、ボロボロになりながら働く私たちの、確かな心の支えになっていた。

    でもその一方で、ニュースの綺麗事だけでは片付けられない「リアルな現実」も、私たちの心をチクチクと刺し続けていた。

    「あんこ、しばらく実家には帰ってこないでね。近所の目がちょっとね……」

    実家の母から申し訳なさそうに電話で言われたとき、胸の奥がツンと痛んだ。

    母を責める気なんてさらさらない。

    でも、最前線で命を守るために働いているはずの自分が、まるで「バイ菌」か何かのように扱われているような気がして、誰もいないアパートの部屋で、1人寂しくレトルトのカレーを食べた夜のことは今でも忘れない。

    他にも、看護師仲間の中には、子供の保育園への登園を控えるよう求められたり、日常生活の中で距離を置かれた経験をした人もいた。

    感謝される一方で、同時に向けられる、見えない偏見の目。

    あの歪んだ空気感の中で、私たちは自分の心と身体を文字どおり「削りながら」働き続けていたのだ。

    /

    コロナ禍が落ち着いたあとに残った、看護師としての疲れと空白

    そして今。

    あの激動の時期が落ち着き、病棟にも日常が戻ってきた。

    でも、嵐が去ってふと立ち止まったとき、私の心には、言葉にできないほど巨大で、ぽっかりとした「空白」が残されていた。

    「私、あんなに命を削ってまで、この場所で働き続ける意味って、本当にあるのかな……」

    夜勤の巡回中、静まり返った廊下を懐中電灯の光で照らしながら、そんな疑問が頭の中をぐるぐると回り始める。

    あの過酷な日々を乗り越えられたのは、

    「今が非常事態だから」

    「私が頑張らなきゃいけないから」

    という、半ばトランス状態のような使命感があったからだ。

    でも、その張り詰めた糸がフッと緩んだ今、自分の足元を見つめ直してみると、そこには疲れ果て、すっかり擦り減ってしまった「30歳の私」がポツンと立っていた。

    あのとき、もし自分が倒れていたとしても、病院の業務そのものは誰かが引き継ぎ、回り続けていただろう。

    でも、私の人生や健康を代わりに生きてくれる人はいない。

    自分を守れるのは、最後は自分自身なのだ。

    /

    コロナ禍で変わった「看護師だから我慢して当然」という価値観

    コロナ禍は、私にとって本当に辛い経験だった。

    でも同時に、「人生で一番大切なものは何か」を考える、決定的なターニングポイントにもなった。

    それまでの私は、

    「看護師なんだから、これくらい我慢して当然」

    「仕事が一番大切」

    と思い込んで生きてきた。

    でも、命の危機をすぐ身近に感じたからこそ、自分の人生の時間は有限で、ものすごく貴重なものなんだと、心の底から気づかされたのだ。

    「自分の健康を犠牲にしてまで、夜勤をやり続ける必要はある?」

    「大切な人たちと会う時間を削ってまで、この病棟に縛られる意味はある?」

    答えは、もうハッキリと出ている。

    NOだ。

    /

    「仕事のため」ではなく「自分の人生のため」に看護師として働きたい

    私は看護師という仕事が好きだし、誇りも持っている。

    でも、これからは「病院のため」に命を削るのではなく、「自分自身が幸せに生きるため」に、その資格を使いたい。

    クローゼットの奥から出てきた防護シールドの予備を手に取り、私はしばらく眺めた。

    あの激動の時代を生き抜いた私なら、これからどんな新しい環境に飛び込んでも、きっとやっていける。

    30歳。

    世界が変わったように、私も、自分の価値観に合わせて働き方を変えていい。

    まずは今夜、当時の自分を労うために、ちょっといい入浴剤を入れてお風呂に長めに浸かることにした。

    そしてこれからは、「どこで働くか」だけではなく、

    「私はどんな人生を送りたいのか」

    から、仕事を選んでいこう。

    (episode15へ続く)

  • 医師に理不尽に怒鳴られる。看護師はドクターの不機嫌の受け皿じゃない

    医師に理不尽に怒鳴られる。看護師はドクターの不機嫌の受け皿じゃない

    看護師あんこ日記 episode13

    医師の入力ミスなのに怒鳴られる。看護師が感じる理不尽

    「ちょっと、これどういうこと!?」

    午前11時。外来診察の合間に病棟へ上がってきた消化器外科の御子柴先生が、ナースステーションのカウンターを大きな音を立てて叩いた。

    手には、私が朝一番に確認してドクターデスクに置いておいた、指示出しの用紙が握られている。

    病棟中の視線が一瞬でこちらに集まり、周囲の空気が一気に凍りつくのが分かった。

    「御子柴先生、どうされましたか?」

    「どうされましたか、じゃないよ! 5号室の佐藤さんの今日の点滴、なんでまだ始まってないの!? 指示出しただろ!」

    先生の顔は怒りで真っ赤。まるで「今すぐ誰かを怒鳴りつけないと気が済まない」と言わんばかりの、不機嫌オーラを全身から撒き散らしている。

    私は一呼吸おいて、冷静に電子カルテの画面を開いた。

    「先生、佐藤さんの点滴ですが、カルテへの入力指示が『明日から開始』のデータになっていたんです。今日の分は指示自体が出ていなかったので、確認のために先生のデスクへ用紙をお戻ししていたのですが……」

    「はあ!? そんなわけないだろ! 君たちがちゃんと確認してないから……」

    先生はカルテの画面をひったくるようにして覗き込み、自分が入力した日付が確かに「明日」になっているのを確認した。

    その瞬間、先生の動きがピタッと止まる。

    「……あ、あー。まぁ、これは、システムのバグか何かっぽいな。とにかく、今すぐ今日からに直すから、早く準備して!」

    自分の入力ミスだと分かった瞬間に、謝るどころか、バグのせいにしてさらに声を荒らげる御子柴先生。

    私の心の中のミニあんこが、

    「はい、先生の負け惜しみ、お見事ですーーー!」

    と大音量でメガホンを鳴らした。

    /

    看護師は医師の不機嫌を受け止める「サンドバッグ」なの?

    「分かりました。指示が出次第、すぐに準備しますね」

    いつものように大人の対応でかわし、先生がフンッと鼻を鳴らして去っていくのを見送る。

    ナースステーションに戻ってきた平和と引き換えに、私の胸の中には、じっとりとした嫌な汗と、モヤモヤとした怒りが残っていた。

    病院という場所には、職種間の力関係を強く感じる場面がある。

    もちろん、診断を下し、治療方針を決めるドクターの知識や責任の重さは、心から尊敬している。

    彼らが毎日、大きなプレッシャーと戦っているのも分かっている。

    だからといって、

    「看護師には何を言ってもいい」

    「どんな態度をとってもいい」

    という理由にはならないはずだ。

    自分の確認ミス。

    外来が長引いたストレス。

    ただの寝不足による不機嫌。

    そういう感情のゴミを、一番言い返しにくい看護師に向かって怒鳴ることで発散する。

    そんなドクターたちの「甘え」のサンドバッグにされる毎日に、私の心はとっくに辟易していた。

    /

    医師と看護師は対等な医療チームのはずなのに

    新人の頃は、ドクターに怒鳴られると、

    「私が悪かったのかな」

    とシクシク泣いて、自分が全責任を背負い込んでいるような気持ちになっていた。

    でも、8年目になった今の私は、もうそうは思わない。

    看護師は、医師の手下でも、機嫌取り係でもない。

    患者さんの命を守るという同じゴールに向かって、それぞれの専門性を活かして働く、同じ医療チームの一員だ。

    医師が間違った指示を出したときに、それを医療事故になる前に防ぐ役割を担うのも、私たち看護師の大切な仕事の一つだ。

    それなのに、ミスを指摘して「教えてくれてありがとう」と言われることは少なく、プライドを傷つけられたドクターから、

    「生意気だ」

    「手際が悪い」

    と理不尽に返されることもある。

    「……あー、やってられないなぁ」

    午後、処置室でアルコール綿を補充しながら、ぽつりとため息をつく。

    どんなに仕事を完璧にこなしても、この「理不尽な身代わり」をさせられる環境にいる限り、私のプライドは少しずつ、すりおろし器で削られるみたいに減っていってしまう。

    /

    医師との人間関係で消耗する働き方を、いつまで続ける?

    退勤後、駅ビルの雑貨屋さんをぶらぶらと歩きながら、お気に入りのアロマオイルの香りを嗅いで深呼吸する。

    御子柴先生の怒鳴り声で汚染された私の脳内を、急ピッチでラベンダーの香りに上書きしていく。

    30歳。

    これから先も、この職場で誰かの顔色をうかがいながら働き続ける人生でいいのだろうか。

    世の中には、医師と看護師がお互いの専門性を尊重しながら、チームとして意見を交わし合える職場だってあるはずだ。

    「私は、ただ自分の仕事を誇りを持って、お互いをリスペクトし合える仲間とやりたいだけなんだけどな」

    夜風に吹かれながら、スマホの画面を見つめる。

    /

    「対等に尊重される職場へ」転職したい理由がまた一つ増えた

    今日の御子柴先生の一件で、私の心の中の、

    「ここに長居はしないリスト」

    のチェック項目が、またひとつ確実に埋まった。

    理不尽な不機嫌の身代わりになるのは、もう終わり。

    次は、私の専門性をちゃんと尊重してくれる職場を探そう。

    看護師だから我慢する。

    医師だから仕方ない。

    そんな「当たり前」を、自分のこれからの人生にまで持ち込む必要はない。

    自分の仕事に誇りを持ちながら、お互いを尊重できる人たちと働く。

    そんな場所を今度は自分で選んでやろう。

    そう決意して、私は駅の改札へと力強く一歩を踏み出した。

    (episode14へ続く)

  • 後輩の退職で夜勤10回。人手不足の病棟で「次は私かも」と思った日

    後輩の退職で夜勤10回。人手不足の病棟で「次は私かも」と思った日

    看護師あんこ日記 episode12

    3年目看護師が退職。「もう限界です」の一言が胸に刺さった

    「あんこさん、今まで本当にお世話になりました……!」

    木曜日の夜勤明け。

    誰もいないカンファレンスルームで、3年目のナース・ユイちゃんが、小さな菓子折りを両手で抱えながら、深々と頭を下げていた。

    その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。

    「ううん、こちらこそだよ。ユイちゃんがいてくれて、本当に助かってた。寂しくなるなぁ……」

    私も精いっぱいの笑顔を作って、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。

    ユイちゃんは、私がプリセプターとして1年目の頃からずっと目をかけて、大切に育ててきた自慢の後輩だった。

    仕事の覚えも早いし、患者さんへの気配りもできる。

    これからの5階病棟を引っ張っていくエースになってくれると、誰もが信じて疑わなかった。

    そんな彼女が、先月突然、

    「もう限界です。看護師を一度辞めます」

    と師長に退職届を出したのだ。

    激務による慢性的な睡眠不足、お局ナースからの執拗な詰め、そして「自分の時間が全くない」という絶望。

    彼女の心がポキリと折れてしまう前に、同じ中堅としてそのSOSに気づいてあげられなかったことが、申し訳なくて、悔しくてたまらなかった。

    「次のところでも、ユイちゃんらしく元気でね。無理しちゃダメだよ」

    「はい! あんこさんも、どうか身体に気をつけてください!」

    最後の挨拶を終え、すっきりとした晴れやかな笑顔で病院を去っていくユイちゃんの後ろ姿を、私はナースステーションの窓からいつまでも見つめていた。

    /

    辞めた後輩を責められない。むしろ「羨ましい」と思ってしまった

    「あーあ、辞めちゃうんだなぁ……」

    ぽつりと呟いた自分の声に、嘘偽りのない寂しさが滲む。

    でも、その寂しさのすぐ裏側に、私は自分でも驚くほど、別の感情が張り付いていることに気づいてしまった。

    それは、ユイちゃんを責める気持ちなんかじゃなくて、圧倒的な「羨ましさ」だった。

    「いいなぁ、ユイちゃん。これで明日から、夜勤のプレッシャーに怯えなくていいんだ」

    「アラームに叩き起こされることも、理不尽に怒鳴られることもない世界に行けるんだ」

    ここではない、どこか別の場所へ一足先に脱出していく後輩の姿が、今の私にはものすごく眩しく、そして羨ましく見えてしまったのだ。

    冷酷な現実から目を背けるように、私は深く、深いため息をついた。

    「……って、浸ってる場合じゃないわ。明日からのシフト、一体どうなるのよ」

    我に返った私は、ナースステーションの壁に貼られた「来月のシフト表」へと目線を移した。

    そして次の瞬間、私の目は完全にハイライトを失った。

    /

    看護師が一人辞めたら夜勤10回。人手不足のしわ寄せは残ったスタッフへ

    ユイちゃんが抜けた穴は、当然のように補填されない。

    「今、どこも看護師不足だからさぁ」

    という師長の口癖とともに、残されたスタッフのマス目に、容赦なく黒い文字が埋め込まれていく。

    私の欄を見てみる。

    ……待って。

    これ、暗号か何かのバグかな?

    そこには、今月を遥かに凌駕する、怒涛の、

    「夜勤 月10回」

    という狂気のスケジュールが刻まれていた。

    もはや、1週間のうち半分は夜中に働く計算になる。

    私はいつから吸血鬼の眷属になったのだろうか。

    さらに、ユイちゃんが担当していた「新人指導のフォロー」や「褥瘡管理委員会のリーダー」という重たい役割が、ごく自然な流れで私の元へとスライドしてきていた。

    「あんこさん、ユイちゃんのこと一番よく分かってるから、引き継ぎよろしくね」

    師長から渡された分厚いファイルを見つめながら、私の両肩に、目に見えないほど巨大な「重圧」がドスンと乗っかった音が聞こえた気がした。

    辞めていくスタッフは、自分の意思でピリオドを打てる。

    でも、残された私たちは、彼女たちが残していった業務や責任、そして過酷さを増したシフトという名の「負の遺産」を、すべて背負い込んで走り続けなければならない。

    この不条理なシステムに、私の心は悲鳴を上げるのを通り越して、ただただ呆然とするしかなかった。

    /

    退職者が出るたび負担が増える。看護師不足の悪循環

    退勤後、いつものようにむくんだ足を引っ張るようにして駅へ向かう。

    ユイちゃんの退職は、病棟全体に小さな、だけど決定的な影を落としていた。

    残された他のメンバーも、みんな一様に疲れ果て、心なしかピリピリしている。

    一人が辞める。

    残った人の負担が増える。

    疲れ切った誰かが、また辞めていく。

    そして、さらに残された人の負担が増える。

    そんな悪循環が、すぐそこまで迫っているのを感じる。

    「私、いつまでこの『残る側』の人間として、すり減り続けなきゃいけないんだろう」

    30歳。

    8年間の経験があるから、仕事はこなせる。

    重圧にも、ある程度は耐えられてしまう。

    でも、耐えられることと、幸せであることは、全くの別物だ。

    /

    「次は私かもしれない」30歳の看護師が退職を意識した瞬間

    後輩の旅立ちを羨ましいと思ってしまうほど、私の心はもう、この場所に限界を感じている。

    「次は私の番かもしれない」

    夜の駅のホーム。

    冷たい風に吹かれながら、私は初めて自分自身の「退職記号」を、心の中のシフト表にハッキリと書き込んだ気がした。

    ユイちゃんがくれた、小さなクッキーをバッグの中でそっと撫でる。

    彼女が勇気を出して一歩を踏み出したように、私も私の人生を守るために、そろそろ動き出さなきゃいけない。

    帰ったら、過酷な来月のシフトを乗り切るためのサプリメントをポチりつつ、自分の「未来の求人票」を探すための時間を作ろう。

    残された重圧に、自分が完全に潰されてしまう前に。

    (episode13へ続く)

  • 患者さんと向き合えない。効率を求められる急性期病棟で感じた理想と現実のギャップ

    患者さんと向き合えない。効率を求められる急性期病棟で感じた理想と現実のギャップ

    看護師あんこ日記 episode11

    「もっと話を聞きたい」のに時間がない。看護師らしい看護ができない

    「あんこさん、ちょっとお願いがあるんだけど……」

    午後2時。一番バタバタする検温回りの最中、ナースステーションのすぐ近くの病室から、佐藤さん(70代・肺がんで入院中)にそっと手招きされた。

    佐藤さんはいつも穏やかで、私たちが忙しくしていると「私は後回しでいいからね」と気を使ってくれる、病棟のオアシスのようなおじいちゃん。

    そんな佐藤さんが、今日はどこか心細そうな顔をして、ベッドの端に腰掛けていた。

    「実はね、来週の退院が決まったのは嬉しいんだけど、家で自分でインスリンの注射をするのが、どうしても怖くてね。手が震えちゃったらどうしようって、昨日の夜もあまり眠れなくて……」

    佐藤さんの言葉に、私はカルテを挟んだバインダーを胸に抱きしめ、しゃがみ込んで目線を合わせた。

    「そうだったんですね。確かに、病院で私たちが準備するのとは違って、お家で一人でやるって思うと、すごく緊張しますよね。大丈夫、来週までに私が何回でも一緒に練習に付き合いますから……」

    その時、私のポケットのPHSが、まるで空気を読まない目覚まし時計のように大音量で震え出した。

    画面には「師長」の二文字。

    『あ、あんこさん? 今どこ? 14号室の鈴木さんの退院許可が出たから、ケアマネジャーさんへの引き継ぎ書類、大至急仕上げて。あと、次の緊急入院がもう救急外来に入ったから、ベッド空けてシーツ交換もお願いね!』

    「あ、はい! すぐ戻ります!」

    受話器を切りながら、私の顔にはいつもの「引きつった笑顔」が自動的に張り付いていた。

    佐藤さんを見上げると、彼は申し訳なさそうに、

    「ごめんね、忙しいのに引き止めちゃって」

    と小さく笑った。

    「ううん、全然です! 佐藤さん、夕方の検温の時に、またゆっくりお注射の練習と、お話をしに来ますね!」

    そう言い残してダッシュでナースステーションに引き返しながら、私は自分の胸の奥がチクチクと痛むのを、必死に無視しようとしていた。

    夕方の検温の時に「ゆっくり話す時間」なんて1分もないことを、私が一番よく知っていたから。

    /

    急性期病棟は効率優先。患者さんが「業務」に見えてしまう瞬間

    ナースステーションに戻るやいなや、私はまるでF1のピットクルーのように猛スピードで動いた。

    ケアマネジャーへの書類を爆速でタイピングし、鈴木さんの退院を見送り、そのまま14号室のベッドのシーツを剥ぎ取ってアルコールで清拭。

    新しいシーツをピシッと張り替える。

    その間、わずか7分。

    我ながら見事な「急性期病棟マシーン」っぷりである。

    息を切らしながら次の患者さんを迎える準備をしていると、頭の中でモヤモヤとした感情が、黒い煙のように広がっていく。

    「私、何のためにこんなに急いでるんだっけ……?」

    今の一般病院、特に急性期では、とにかく「ベッドの回転」が求められる。

    検査や治療が終わったら、少しでも早く退院、または療養病棟へ転院してもらい、空いたベッドには次の患者さんを受け入れる。

    限られた病床とスタッフで医療を提供するためには、効率よく病棟を回す必要がある。

    頭では分かっている。

    でも、私が看護学校の教科書で習い、ずっとやりたいと思ってきた看護って、こんな風に患者さんを「回転寿司の皿」みたいに効率よくさばくことだったっけ?

    /

    「患者ファースト」と「業務効率」。看護師が苦しむ理想と現実のギャップ

    もっと患者さんの不安に寄り添いたい。

    今日のご飯は食べられたか。

    お家に帰ってから困ることはないか。

    佐藤さんのように「注射が怖い」というリアルな本音に耳を傾け、安心できるまで寄り添ってあげたい。

    それこそが、私が目指した「患者ファースト」の看護だった。

    でも、現実は残酷なまでに数字とスピードを求めてくる。

    一人の患者さんの話を10分丁寧に聞くだけで、全体のタイムスケジュールはドミノ倒しのように崩れていくのだ。

    点滴の開始が遅れ、検温の入力が遅れ、次の検査の時間が遅れ、結果として他のスタッフにも影響が出る。

    そして、

    「あんこさん、手際が悪いよ」

    と評価されるかもしれない。

    いつの間にか私は、患者さんの「心」を見るのをやめ、点滴の目盛りや、モニターの数値や、電子カルテのチェックボックスばかりを追いかけるようになっていた。

    効率よく業務をこなして定時に終わるナースが「優秀」とされ、患者さんの話に付き合って残業するナースは「要領が悪い」とされる世界。

    「……なんだか、心が折れそうだな」

    夕方、誰もいないリネン室で、新しいバスタオルを抱きしめながら、ぽつりと本音が漏れた。

    自分が大切にしたい理想と、職場で求められる現実のギャップが大きすぎて、私の看護師としてのプライドが、パキパキと音を立ててひび割れていくような気がした。

    /

    看護師8年目。「忙しくてできない」ではなく「できるのにできない」苦しさ

    仕事を完璧に、効率よくこなせるようになった8年目だからこそ、このジレンマはより深く私を苦しめる。

    新人の頃のように「忙しくて手が回らない」のではない。

    「やろうと思えばできるのに、今の病棟の仕組みでは十分な時間を取れない」

    その制限が、じわじわと心の元気を奪っていくのだ。

    私は、冷徹な業務処理マシーンになりたくて看護師になったんじゃない。

    一人の人間として、目の前の患者さんの人生に、ほんの少しだけ温かい灯りをともせるような、そんな丁寧なケアがしたかった。

    「この病棟のスピード感、もう今の私の価値観には合っていないのかもしれないな……」

    /

    患者さんと向き合える職場へ。急性期以外の働き方を考え始めた

    退勤後、駅へと向かう道すがら、夕闇に染まる街並みを見上げる。

    世の中には、急性期病院のようにスピードが求められる場所だけでなく、患者さん一人ひとりと、より時間をかけて向き合える働き方もある。

    訪問看護。

    療養病棟。

    地域密着型のクリニック。

    同じ看護師という資格でも、働く場所が変われば、求められる看護も、時間の流れ方も違うはずだ。

    自分の理想の看護を諦めてマシーンになるくらいなら、その理想をちゃんと活かせる「新しい舞台」を探すべき時が来ているのかもしれない。

    駅の改札を抜けながら、私はスマホを取り出した。

    佐藤さんに見せてしまったあの引きつった笑顔を、今度は心からの本当の笑顔に変えられる場所を見つけるために。

    まずは、小さな一歩を踏み出してみよう。

    (episode12へ続く)