看護師あんこ日記 episode11
「もっと話を聞きたい」のに時間がない。看護師らしい看護ができない
「あんこさん、ちょっとお願いがあるんだけど……」
午後2時。一番バタバタする検温回りの最中、ナースステーションのすぐ近くの病室から、佐藤さん(70代・肺がんで入院中)にそっと手招きされた。
佐藤さんはいつも穏やかで、私たちが忙しくしていると「私は後回しでいいからね」と気を使ってくれる、病棟のオアシスのようなおじいちゃん。
そんな佐藤さんが、今日はどこか心細そうな顔をして、ベッドの端に腰掛けていた。
「実はね、来週の退院が決まったのは嬉しいんだけど、家で自分でインスリンの注射をするのが、どうしても怖くてね。手が震えちゃったらどうしようって、昨日の夜もあまり眠れなくて……」
佐藤さんの言葉に、私はカルテを挟んだバインダーを胸に抱きしめ、しゃがみ込んで目線を合わせた。
「そうだったんですね。確かに、病院で私たちが準備するのとは違って、お家で一人でやるって思うと、すごく緊張しますよね。大丈夫、来週までに私が何回でも一緒に練習に付き合いますから……」
その時、私のポケットのPHSが、まるで空気を読まない目覚まし時計のように大音量で震え出した。
画面には「師長」の二文字。
『あ、あんこさん? 今どこ? 14号室の鈴木さんの退院許可が出たから、ケアマネジャーさんへの引き継ぎ書類、大至急仕上げて。あと、次の緊急入院がもう救急外来に入ったから、ベッド空けてシーツ交換もお願いね!』
「あ、はい! すぐ戻ります!」
受話器を切りながら、私の顔にはいつもの「引きつった笑顔」が自動的に張り付いていた。
佐藤さんを見上げると、彼は申し訳なさそうに、
「ごめんね、忙しいのに引き止めちゃって」
と小さく笑った。
「ううん、全然です! 佐藤さん、夕方の検温の時に、またゆっくりお注射の練習と、お話をしに来ますね!」
そう言い残してダッシュでナースステーションに引き返しながら、私は自分の胸の奥がチクチクと痛むのを、必死に無視しようとしていた。
夕方の検温の時に「ゆっくり話す時間」なんて1分もないことを、私が一番よく知っていたから。
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急性期病棟は効率優先。患者さんが「業務」に見えてしまう瞬間
ナースステーションに戻るやいなや、私はまるでF1のピットクルーのように猛スピードで動いた。
ケアマネジャーへの書類を爆速でタイピングし、鈴木さんの退院を見送り、そのまま14号室のベッドのシーツを剥ぎ取ってアルコールで清拭。
新しいシーツをピシッと張り替える。
その間、わずか7分。
我ながら見事な「急性期病棟マシーン」っぷりである。
息を切らしながら次の患者さんを迎える準備をしていると、頭の中でモヤモヤとした感情が、黒い煙のように広がっていく。
「私、何のためにこんなに急いでるんだっけ……?」
今の一般病院、特に急性期では、とにかく「ベッドの回転」が求められる。
検査や治療が終わったら、少しでも早く退院、または療養病棟へ転院してもらい、空いたベッドには次の患者さんを受け入れる。
限られた病床とスタッフで医療を提供するためには、効率よく病棟を回す必要がある。
頭では分かっている。
でも、私が看護学校の教科書で習い、ずっとやりたいと思ってきた看護って、こんな風に患者さんを「回転寿司の皿」みたいに効率よくさばくことだったっけ?
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「患者ファースト」と「業務効率」。看護師が苦しむ理想と現実のギャップ
もっと患者さんの不安に寄り添いたい。
今日のご飯は食べられたか。
お家に帰ってから困ることはないか。
佐藤さんのように「注射が怖い」というリアルな本音に耳を傾け、安心できるまで寄り添ってあげたい。
それこそが、私が目指した「患者ファースト」の看護だった。
でも、現実は残酷なまでに数字とスピードを求めてくる。
一人の患者さんの話を10分丁寧に聞くだけで、全体のタイムスケジュールはドミノ倒しのように崩れていくのだ。
点滴の開始が遅れ、検温の入力が遅れ、次の検査の時間が遅れ、結果として他のスタッフにも影響が出る。
そして、
「あんこさん、手際が悪いよ」
と評価されるかもしれない。
いつの間にか私は、患者さんの「心」を見るのをやめ、点滴の目盛りや、モニターの数値や、電子カルテのチェックボックスばかりを追いかけるようになっていた。
効率よく業務をこなして定時に終わるナースが「優秀」とされ、患者さんの話に付き合って残業するナースは「要領が悪い」とされる世界。
「……なんだか、心が折れそうだな」
夕方、誰もいないリネン室で、新しいバスタオルを抱きしめながら、ぽつりと本音が漏れた。
自分が大切にしたい理想と、職場で求められる現実のギャップが大きすぎて、私の看護師としてのプライドが、パキパキと音を立ててひび割れていくような気がした。
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看護師8年目。「忙しくてできない」ではなく「できるのにできない」苦しさ
仕事を完璧に、効率よくこなせるようになった8年目だからこそ、このジレンマはより深く私を苦しめる。
新人の頃のように「忙しくて手が回らない」のではない。
「やろうと思えばできるのに、今の病棟の仕組みでは十分な時間を取れない」
その制限が、じわじわと心の元気を奪っていくのだ。
私は、冷徹な業務処理マシーンになりたくて看護師になったんじゃない。
一人の人間として、目の前の患者さんの人生に、ほんの少しだけ温かい灯りをともせるような、そんな丁寧なケアがしたかった。
「この病棟のスピード感、もう今の私の価値観には合っていないのかもしれないな……」
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患者さんと向き合える職場へ。急性期以外の働き方を考え始めた
退勤後、駅へと向かう道すがら、夕闇に染まる街並みを見上げる。
世の中には、急性期病院のようにスピードが求められる場所だけでなく、患者さん一人ひとりと、より時間をかけて向き合える働き方もある。
訪問看護。
療養病棟。
地域密着型のクリニック。
同じ看護師という資格でも、働く場所が変われば、求められる看護も、時間の流れ方も違うはずだ。
自分の理想の看護を諦めてマシーンになるくらいなら、その理想をちゃんと活かせる「新しい舞台」を探すべき時が来ているのかもしれない。
駅の改札を抜けながら、私はスマホを取り出した。
佐藤さんに見せてしまったあの引きつった笑顔を、今度は心からの本当の笑顔に変えられる場所を見つけるために。
まずは、小さな一歩を踏み出してみよう。
(episode12へ続く)

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