看護師あんこ日記 episode12
3年目看護師が退職。「もう限界です」の一言が胸に刺さった
「あんこさん、今まで本当にお世話になりました……!」
木曜日の夜勤明け。
誰もいないカンファレンスルームで、3年目のナース・ユイちゃんが、小さな菓子折りを両手で抱えながら、深々と頭を下げていた。
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「ううん、こちらこそだよ。ユイちゃんがいてくれて、本当に助かってた。寂しくなるなぁ……」
私も精いっぱいの笑顔を作って、彼女の肩をぽんぽんと叩いた。
ユイちゃんは、私がプリセプターとして1年目の頃からずっと目をかけて、大切に育ててきた自慢の後輩だった。
仕事の覚えも早いし、患者さんへの気配りもできる。
これからの5階病棟を引っ張っていくエースになってくれると、誰もが信じて疑わなかった。
そんな彼女が、先月突然、
「もう限界です。看護師を一度辞めます」
と師長に退職届を出したのだ。
激務による慢性的な睡眠不足、お局ナースからの執拗な詰め、そして「自分の時間が全くない」という絶望。
彼女の心がポキリと折れてしまう前に、同じ中堅としてそのSOSに気づいてあげられなかったことが、申し訳なくて、悔しくてたまらなかった。
「次のところでも、ユイちゃんらしく元気でね。無理しちゃダメだよ」
「はい! あんこさんも、どうか身体に気をつけてください!」
最後の挨拶を終え、すっきりとした晴れやかな笑顔で病院を去っていくユイちゃんの後ろ姿を、私はナースステーションの窓からいつまでも見つめていた。
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辞めた後輩を責められない。むしろ「羨ましい」と思ってしまった
「あーあ、辞めちゃうんだなぁ……」
ぽつりと呟いた自分の声に、嘘偽りのない寂しさが滲む。
でも、その寂しさのすぐ裏側に、私は自分でも驚くほど、別の感情が張り付いていることに気づいてしまった。
それは、ユイちゃんを責める気持ちなんかじゃなくて、圧倒的な「羨ましさ」だった。
「いいなぁ、ユイちゃん。これで明日から、夜勤のプレッシャーに怯えなくていいんだ」
「アラームに叩き起こされることも、理不尽に怒鳴られることもない世界に行けるんだ」
ここではない、どこか別の場所へ一足先に脱出していく後輩の姿が、今の私にはものすごく眩しく、そして羨ましく見えてしまったのだ。
冷酷な現実から目を背けるように、私は深く、深いため息をついた。
「……って、浸ってる場合じゃないわ。明日からのシフト、一体どうなるのよ」
我に返った私は、ナースステーションの壁に貼られた「来月のシフト表」へと目線を移した。
そして次の瞬間、私の目は完全にハイライトを失った。
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看護師が一人辞めたら夜勤10回。人手不足のしわ寄せは残ったスタッフへ
ユイちゃんが抜けた穴は、当然のように補填されない。
「今、どこも看護師不足だからさぁ」
という師長の口癖とともに、残されたスタッフのマス目に、容赦なく黒い文字が埋め込まれていく。
私の欄を見てみる。
……待って。
これ、暗号か何かのバグかな?
そこには、今月を遥かに凌駕する、怒涛の、
「夜勤 月10回」
という狂気のスケジュールが刻まれていた。
もはや、1週間のうち半分は夜中に働く計算になる。
私はいつから吸血鬼の眷属になったのだろうか。
さらに、ユイちゃんが担当していた「新人指導のフォロー」や「褥瘡管理委員会のリーダー」という重たい役割が、ごく自然な流れで私の元へとスライドしてきていた。
「あんこさん、ユイちゃんのこと一番よく分かってるから、引き継ぎよろしくね」
師長から渡された分厚いファイルを見つめながら、私の両肩に、目に見えないほど巨大な「重圧」がドスンと乗っかった音が聞こえた気がした。
辞めていくスタッフは、自分の意思でピリオドを打てる。
でも、残された私たちは、彼女たちが残していった業務や責任、そして過酷さを増したシフトという名の「負の遺産」を、すべて背負い込んで走り続けなければならない。
この不条理なシステムに、私の心は悲鳴を上げるのを通り越して、ただただ呆然とするしかなかった。
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退職者が出るたび負担が増える。看護師不足の悪循環
退勤後、いつものようにむくんだ足を引っ張るようにして駅へ向かう。
ユイちゃんの退職は、病棟全体に小さな、だけど決定的な影を落としていた。
残された他のメンバーも、みんな一様に疲れ果て、心なしかピリピリしている。
一人が辞める。
残った人の負担が増える。
疲れ切った誰かが、また辞めていく。
そして、さらに残された人の負担が増える。
そんな悪循環が、すぐそこまで迫っているのを感じる。
「私、いつまでこの『残る側』の人間として、すり減り続けなきゃいけないんだろう」
30歳。
8年間の経験があるから、仕事はこなせる。
重圧にも、ある程度は耐えられてしまう。
でも、耐えられることと、幸せであることは、全くの別物だ。
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「次は私かもしれない」30歳の看護師が退職を意識した瞬間
後輩の旅立ちを羨ましいと思ってしまうほど、私の心はもう、この場所に限界を感じている。
「次は私の番かもしれない」
夜の駅のホーム。
冷たい風に吹かれながら、私は初めて自分自身の「退職記号」を、心の中のシフト表にハッキリと書き込んだ気がした。
ユイちゃんがくれた、小さなクッキーをバッグの中でそっと撫でる。
彼女が勇気を出して一歩を踏み出したように、私も私の人生を守るために、そろそろ動き出さなきゃいけない。
帰ったら、過酷な来月のシフトを乗り切るためのサプリメントをポチりつつ、自分の「未来の求人票」を探すための時間を作ろう。
残された重圧に、自分が完全に潰されてしまう前に。
(episode13へ続く)

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