看護師あんこ日記 episode6
患者さんの「ありがとう」に何も感じなかった
「あんこさん、これまで本当にありがとうございました。あなたに担当してもらえて、本当に心強かったです」
午後2時。本日退院を迎えた、大腿骨骨折で入院していた80代のウメさんが、私の手を両手でぎゅっと握りしめてくれた。
車椅子の上で満面の笑みを浮かべるウメさんのシワシワの手は、驚くほど温かい。
「リハビリ、本当によく頑張りましたね! お家に戻っても、転ばないように気をつけて過ごしてくださいね」
私もいつもの「営業用スマイル(最上級)」を顔面に張り付け、ハキハキとした明るい声で返す。
ウメさんは何度も頭を下げながら、ご家族と一緒にエレベーターへと消えていった。
いつもの見慣れた退院風景。
看護師冥利に尽きる、一番心が温まるはずの瞬間。
なのに、エレベーターの扉が閉まった瞬間、私の顔からスッと筋肉の緊張が消えた。
胸の中に残っていたのは、温かい感動なんかじゃなく、言葉を選ばずに言うなら「無」だった。
「……よし、これで5号室のベッドが1床空いたから、15時からの緊急入院の受け入れ準備しなきゃ」
頭の中の計算機が、冷酷なスピードで次の業務を弾き出す。
ウメさんの感謝の言葉は、私の心の奥まで届く前に、目の前のタスクの波にかき消されてしまっていた。
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忙しすぎる病棟で、患者さんと向き合えなくなっていた
「ありがとう」の言葉が、心に響かない。
その事実に気づいたとき、胸の奥がチクリと痛んだ。
看護師になったばかりの頃は、患者さんからの「ありがとう」の一言で、夜勤の疲れなんて一瞬で吹き飛んでいた。
嬉しくて、日記に書き留めたり、帰り道に1人で思い出してニヤニヤしたりしていた。
私は看護の仕事が好きだし、目の前の人を笑顔にしたいから、ここまで必死にやってきたはずだった。
それなのに、今の私はどうだ。
「人手不足」という名の免罪符のもと、病棟は毎日が限界突破の自転車操業。
受け持ち患者さんのケア、点滴の準備、ドクターの回診、ドレーン管理、他科受診の調整、鳴り止まないナースコール。
時計の針と競争しながら、まるでベルトコンベヤーから流れてくる製品をさばくように、患者さんを一人の「人間」としてではなく「業務」としてこなしている。
ゆっくり話を聞いてあげたいけれど、5分以上立ち止まったら、その後の検温回りが終わらなくなる。
優しく寄り添いたいけれど、そうやって心を動かしていたら、業務のマルチタスクに脳が耐えきれなくなる。
だから、いつの間にか私の脳は、自分を守るために「感情のシャッター」をガラガラと閉めるようになっていたのだ。
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「看護が好きだったのに」やりがいを感じなくなった自分が怖かった
ナースステーションに戻り、緊急入院用のカルテを準備しながら、強い自己嫌悪と虚しさが襲ってくる。
「私、いつからこんなに冷たい人間になっちゃったんだろう」
心を失ったマシーンのように、ただテキパキと注射を打ち、ただマニュアル通りに説明をこなす。
患者さんが泣いていても「あ、予定の処置が遅れちゃう」と心の中で焦り、感謝されても「早く次の仕事に行かなきゃ」と時計ばかり気にしている。
そんな自分が、猛烈に悲しかった。
私がやりたかった看護って、こんな風に心を無感動にして、人をロボットみたいにさばく仕事だったっけ?
「お疲れ様ですー、15時入床の患者さん、救急外来から上がってきまーす!」
後輩の声で、ハッと現実に引き戻される。
悩んでいる暇なんて1秒もない。
私は再び「完璧な看護師あんこ」の仮面を被り、
「はーい、ストレッチャー準備して!」
と声を張り上げた。
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看護師の心が疲れ切ると、優しさまで枯れてしまう
その日の夜。
残業を終えて、疲れ果てた体で自宅のソファに転がった。
メイクを落とす気力もなく、ただ天井を見つめる。
今日一番心に残っていたのは、ウメさんの温かい笑顔ではなく、やっぱり「ありがとうに何も感じなかった自分」へのショックだった。
でも、ふと思った。
私の優しさが枯れてしまったのは、私が冷酷な人間になったからじゃない。
自分の心のコップが、日々の激務ですっかり「空っぽ」になってしまっているからだ。
自分のコップがカラカラなのに、他人のコップにお水を注いであげることなんてできるわけがない。
今の一般病院の急性期病棟という環境は、私の心の水分を、容赦なくカラカラに吸い上げ尽くしてしまう場所なのだ。
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「もっと患者さんと向き合える職場はない?」働く環境を変えることを考え始めた
「もっと、1人の患者さんとちゃんと向き合える場所って、本当にないのかな」
業務をこなすマシーンではなく、一人の人間として、心を通わせる看護がしたい。
私の大切な「優しさ」や「感受性」が、忙しさで完全に死んでしまう前に、この働く環境を変えなきゃいけないのかもしれない。
私は起き上がり、カサカサの唇にお気に入りのリップクリームをたっぷり塗った。
明日の休みは、自分の心のコップに、好きな映画と美味しいご飯というお水を、溢れるくらい注いであげよう。
優しくて人間らしい「あんこ」を取り戻すために。
(episode7へ続く)

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